オンライン布薩 – ウポーサタ –
ウポーサタと言います。
先日参加させてもらいました。
導師を頼まれて、読経と法話を行い、そのあと参加者の方とお話をさせてもらいました。
これは、かつて松本紹圭さんが、私が行っている布薩に興味を持ってくれて、円覚寺まで布薩を習いに来てくれたことがありました。
それから松本さんは、戒とは「よき習慣」であることを、よく説いてくださっています。
このオンラインの布薩が昨年の四月に始まって、その第一回の導師を務めさせてもらったのでした。
布薩は、ウポーサタというのが原語であります。
ウポーサタにホームページがあります。
そこからどのような集まりなのかを引用させてもらいます。
「この「uposatha(ウポーサタ)」は、
SBNR的
『Spiritual But Not Religious=
特定の宗教への信仰は持たないけれど、精神的な豊かさを求める』
な感性を持つ人が増えている今、
現代の「ひじり」たちが僧俗を問わず、
性別や年齢、国籍や宗教、社会的立場などの
あらゆる属性の違いを超えて
集い交感が生まれるネットワーク・プラットフォームです。」
という主旨であります。
更に、
「電話もインターネットもなかった時代から、インド中に散らばった修行者たちは相互にネットワーク化し、新月と満月の日に集まって各自の修行を振り返る会合を開いてきました。
それが古代インドの言葉で「ウポーサタ」、日本語では「布薩(ふさつ)」と呼ばれます。
そうした伝統にインスパイアされ、ここ「uposatha」では現代の「ひじり」が仲間と共に日々の生活を省みるための、オンライン上で行う「布薩ミーティング」をその中心活動に据えていきます。」
というものなのです。
新月や満月の夜に行っています。
午後八時からゲスト導師による読経と法話。
八時四十分からご導師を囲んでのQ&Aセッション
九時十分までグループダイアログ
そのあと九時半までクロージングという内容です。
今回は、「空性と私」というテーマをいただいていましたので、それに関連して法話をしました。
まずは、「空性と私」という題をつけた時点ですでに「空性」と「私」が分離してしまっていることを指摘しました。
空性とは私であり、私が空性なのです。
私が行った読経では、布薩で唱えている戒の条文などを読誦しました。
その最後に、「私達は、仏陀釈尊の慈悲のこころを学び、慈悲のこころを実践するために修行いたします。」という言葉があります。
そこから慈悲と空性の話をしたのでした。
これも空性と慈悲はひとつなのであります。
現代語訳 大乗仏典1『般若経典』中村元(東京書籍)に次の言葉があります。
引用させてもらいます。
「慈悲と空とは、実質的には同じです。
哲学面から見ると空ですが、実践面からいうと慈悲になります。
われとなんじが相対しているとき、そこに隔てがあるかぎり、われとなんじの対立はいつまでも残っています。
けれど、その根底にある空の境地に立って自分の身を相手の立場に置いて考えるようにすると、そこから、ほんとうの意味の愛が成立します。
それを仏教では「慈悲」とよんでいます。
「慈悲」ということを、仏典ではまれに「愛」ということばで表現している場合もありますが、愛の純粋化されたものが慈悲である、ということがいえます。
世俗の愛は、いろいろな要素がまといついています。
純粋の愛というものは、不純物がありません。
われわれが空の境地を体得すると、よい行いがおのずから現れでてきます。」
という言葉であります。
世俗の愛にはいろんな要素がまといついているとは、見返りを求めたり、してあげたと意識することなどであります。
更に
「仏教の術語では、とらわれのない実践のことを「三輪清浄」といいます。
物心の別なく、人が人を援助する場合には、与える人(施者)、それを受げる人(受者)、そのあいだにあって渡されるもの(施物)この三つが考えられます。
この三つが清らかでなければなりません。
「おれがあいつにこういうことをしてやったんだ」と思っているあいだは、「おれが」という意識が滞っています。
「あいつに」というその思いが残っています。
「こういうことをしてやったんだ」というそのとらわれがあります。
そういうことをすっかり離れてしまって、清らかな境地になって、人を助けるというところに、ほんとうの意味の実践があるのです。
そこにおいてはなんらとらわれることがなくて、しかも道にはずれることがありません。」
と説かれています。
まさしくその通りなのです。
あたかも母が我が子を愛するようなものです。
赤ん坊をお世話している時に、母と子は一体です。
赤ちゃんのお腹がすいたら、母親もお腹がすいたように感じるものです。
ひとつになっているのです。
オンラインで参加された方の中に、ちょうど赤ちゃんのお世話をしながら聞いてくださった方もいらっしゃったようであります。
あとで素晴らしい感想の言葉をいただきました。
慈悲ということを身体で理解されたのだと思いました。
十数人の参加者の中には、お坊さんも何名かいらっしゃいました。
驚いたことには、なんと小池陽人さんもご参加くださっていました。
「私がせっかくですから小池さんも一言」とお願いするといい話を聞かせてくださいました。
ちょうど大峯山に登って修行されてきたところだったのでした。
大峯山という厳しい霊場に登って修行をなされるのであります。
その中で「「西の覗(にしののぞき)」というのがあるそうなのです。
断崖絶壁から下に向かって身を乗り出してのぞき込むのです。
じつに命がけの修行です。
二人の先達の方が足を持ってくれているのだそうですが、たいへんです。
背後から、先達の方が「親孝行するか?」など問われて大声で「はい」と答えるのだそうです。
小池さんは長年登っておられますので、今回足を持ってつるす側になったということなのです。
こちらもたいへんです。
もし手を離してしまい、つるされた人が崖から落ちたら、自分も一緒に落ちなければならないというのです。
まさに必死で、相手とひとつになる、自他一如を実際に体験したというお話でした。
自他一如は、口で言うのは簡単ですが、実際には容易なことではありません。
小池さんがいい話をしてくれましたので、私のとりとめのない話も引き締まったものとなりました。
またこれからも新月満月の晩にいろんな方が読経と法話をしてくださるので、参加してみたいと思います。
横田南嶺