階段をさらさら登るように
今回学んだのは、第三十六講「一日の意味」であります。
この講のはじりまりには、
「先生教室へ入られるや、「教師というものは、とくに冬向きになったら、教室の空気がどの程度濁ているかということが、点数でピシリと言えるようでなければいけないのです。
この教室の空気は、今日はまず六十点くらいのものです。
教師として教室の空気の濁りに気付かぬというのは、その精神が緊張を欠いている何よりの証拠です。
つまり真に生徒のことを思っていないからです。」
という言葉があります。
森先生ならでは厳しい指摘であります。
単に換気が不十分だから空気が濁っているというだけの問題ではないと思います。
みんながやる気に満ちていれば澄んでくるでしょうし、怠惰な気持ちでダラダラ過ごしているとよどんでくるでしょう。
試みに修行僧達に今の空気はどのくらい濁っているかと聞いてみました。
一番濁ってどうしようもないのを百として、点数で表示してもらいました。
高いのでは八十点と答える者もいましたし、低いのでは十五点というのもいました。
五十点がいちばん多かったのですが、だいたい均等にばらついていました。
感じ方というのは人それぞれなのです。
どれがよいとか、悪いとかいうものでもないでしょう。
濁っているなと感じて、きれいにしようと思う生き方もあれば、今きれいで気持ちいいなと感じて生きるのもありましょう。
さてそのあとに森先生は、
「初めにちょっと申すんですが、諸君は階段を昇るとき、まるで廊下でも歩くように、さらさらと登る工夫をしてごらんなさい。
というのも人間の生命力の強さは、ある意味ではそうしたことによっても、養われると言えるからです。」
と説かれています。
これもいきなりという気がしますが、このように階段を登るという日常の些細な事柄から真理を説いてゆくのが森先生の特徴でもあります。
「階段の途中に差しかかって、急に速度がにぶるようでは、それはその人が、心身ともにまだ生命力の弱い証拠と言ってもよいでしょう。
と申すのも、この場合階段というものが、やがてまた人生の逆境にも通ずると言えるからです。
この辺の趣が分からなくては、その人の人生もまだ本格的に軌道に乗ったとは言えないでしょう。」
と説かれています。
これを読みながら、私は先日須磨寺にお参りして奥の院まで石段を登った時の事を思い起こしていました。
さらさらと登るのには少々高いところにあるのですが、それでも私はさらさらと速度を落とすこともなく登り切ることができました。
これはやはり、普段からある程度鍛錬をしているからでもありましょう。
自分一人登っては気がつかないのですが、一緒に登った私よりもお若い方が、途中で休んでいるのを見ますと、やはり普段の鍛錬が大切だと分りました。
平地を歩くように階段でも登れるということは、どんな困難なことがあっても普段と同じように対処してゆけることに通じるのであります。
それには普段からいろんな負荷をかけて、いざというときに備えて鍛錬しておく必要があるものです。
森先生が、
「そこでまたお互い人間は、逆境の時でも、はたの人から見て、苦しそうに過ごすものではないとも言えましょう。
つまり階段の途中まできても、平地を歩くと同じような調子で登るのと同じように、人生の逆境も、さりげなく越えていくようにありたいものです。」
と説かれている通りなのです。
そこから森先生は、逆境に対する心構えを突き詰めてゆくと、死に対する心構えを日々新たにしてゆかねばならないと説かれています。
つまり、一日はたらいて夜寝るときには、今日一日の予定の仕事を仕上げて明日に残さないようにして安眠することだというのです。
そういう一日一日が、積み重なって一生となるのです。
それからこの章の終わりに、
「そもそも道理というものは、ひとりその事のみでなく、外の事柄にも通じるものです。
たとえば始めに申したように、階段を登るときは、さらさらと最後まで軽やかに登るということのうちに、やがてまた人生の逆境に処する道も含まれている、というようなことをいうわけです。
そこで、かような道理を心得ている場合と、ただ階段というものは、なるべくさらさらと登るものだ、と言われただけとでは、同じくそれを実行するにも、その力の入れ方に、大きなひらきが出てくるわけです。
さらにまた、道理を知った上での実行というものは、その実行によって会得した趣を、他の人々に分け伝えることもできるわけです。
ところが道理知らずの実行は、その収穫はただ自分一身の上にとどまるのです。
かように道理を知るということは、非常に大事なことであります。 」
と説かれているところにも注目しました。
たとえば、筋肉を鍛える為のトレーニングをするにしても、これがどの筋肉にどのようにはたらいてどういう効果をもたらすのか、よく道理を知って鍛えるのと、何も道理が分らずに、ただ言われたままに行っているのとでは、大きな差があるものです。
私たちの修行にしてもそうであります。
その道理を知って修行することには大きな意味があります。
やる気も起きてきますし、継続も出来るようになり、そして更には人にも説いてあげることができるようにもなるものです。
よく道理を学んで実行することが大切であります。
まずは階段をさらさら登ることは、人生の逆境に処するにも大きな意味があると弁えて登りましょう。
横田南嶺