洪鐘弁天祭
ひとつは仏舎利をお祀りした舎利殿です。
もうひとつは、洪鐘(おおがね)であります。
洪鐘は、北条貞時公の時に造られたものです。
貞時公は、時宗公の子であります。
八代執権北条時宗公が弘安七年一二八四年にわずか数え年三十四歳でお亡くなりになってしまいました。
その年に貞時公がまだ十四歳でしたが、執権に就任しました。
貞時公は、時宗公にならって、参禅に励んでいました。
大休正念禅師や、西澗子曇禅師や一山一寧禅師について修行されていたのでした。
西澗子曇禅師は一二四九年浙江省のお生まれです。
文永八年(一二七一)時宗公の招聘で日本にやって来られました。
しかし弘安元年(一二七一)一度元の国に帰ってしまいました。
正安元年(一二九九)一山一寧禅師の来朝に付随して日本に見えたのでした。
貞時公は、弟子の礼をとったと伝えられています。
円覚寺や建長寺に住されて、建長寺で亡くなった禅僧です。
貞時公が、洪鐘を造るときには、次の話が伝わっています。
昭和六十年に発行された『瑞鹿山円覚寺』に、三浦勝男先生が次のように書かれています。
「このように、禅に心をよせた貞時の円覚寺伽藍復興の一例として、つり鐘造営の話を紹介しておこう。
現在、仏殿に向って右方の、いわゆる洪鐘道をとって長い石段をのぼった丘陵上には、関東地方で最も大きく、かつまた鎌倉時代の代表的な秀作として名高い国宝のつり鐘がかかっている。
これは正安三年(一三〇一) 八月に大檀那貞時が寄進し、鋳物師物部国光が造ったものである。
つり鐘は、身丈が二メートル六〇センチ近くもある大きな鐘であるため、これを造る時はさぞ大変なことであったろうと想像されるが、その時の苦労話を伝えるかのように、鐘の鋳造にまつわる話がある。
貞時が、父時宗の志をついで、円覚寺に大鐘を造って国家の安泰をねがい、寺の法器として永久にそなえようと、巧匠に命じて鋳造しはじめるのだった。
しかし、鐘を鋳ること再三におよぶも失敗するばかりなので、困りはてた貞時は、時の住寺西澗子曇に相談して師の教えをあおいでみた。
子曇は、江ノ島の弁才天に深く祈願し、七日間におよんで参籠せよと貞時にいう。師の教えのとおり、江ノ島弁天を一心に祈った貞時は、ある夜、不思議な夢をみる。
中に現われた神霊が貞時に呼びかけた。
寺内の宿龍池の水底をさぐってみよ…と。
貞時は神霊の告げどおりに池底をさぐってみると、ひと塊りの龍頭形の金銅を手にすることができるのだった。彼は感涙この上ない思いに浸ったという。
そして、さっそくその銅をもって鐘を鋳たところ、たちまちに鐘を造ることが出来たので、のち、その霊験に感じた貞時は、江ノ島から石像蛇形の弁才天を、大鐘の神体として鐘楼のかたわらに勧請し、「洪鐘大弁才功徳天」と名づけて祀ったというのである。
この堂は、伝説にちなんで建てられた宇賀神(弁才天)をまつる弁天堂である。
なお、大鐘の銘文を撰したのは、さきの住僧子曇であり、鐘に刻まれた銘文によると、鋳造に喜捨助縁した信者は一五〇〇人におよび、勧進に心をよせた当山の僧侶は二五〇人であったことがわかる。
また、鋳物師の物部国光は、建長寺の大鐘をつくった重光の三代目にあたる人で、一時ふるわなかった物部氏の名をふたたび高めた巧匠である。
国光の作品としては、千葉県小網寺・相模国分寺・横浜東漸寺・同称名寺の各寺にのこっているが、円覚寺の大鐘は、かれの遺品としては最後にして最大の作品だったのである。」
というのであります。
言い伝えですので、どこまで本当かは分りませんが、今も円覚寺には弁天様をお祀りした弁天堂がございます。
この洪鐘大弁才功徳天をお祀りする行事が、なんと六十年に一度行われるのです。
文献の上では、西暦一四八〇年から行われていることが確認できます。
以来庚子の年に行われています。
前回は、一九六〇年の予定でしたが、円覚寺の諸般の事情で、開催が五年ほど遅れて一九六五年に開催されています。
今回は、二〇二〇年に開催される予定でした。
しかし、新型コロナウイルス感染症の蔓延によって延期せざるを得なくなり、今年ようやく開催されることになったのです。
九月十一日にまず江ノ島神社と円覚寺とで合同の法要を円覚寺で行いました
それに先だって記者会見も開いたのでした。
江ノ島神社からは宮司様はじめ多くの神官の方々がご出仕くださいました。
円覚寺側も一山の僧侶が出頭してお勤めしました。
最後に地元の八雲神社の宮司様が、円覚寺に伝わる宇賀神の尊像から、御霊を木札にお移しするという神事を行ってもらいました。
十月二十九日は、洪鐘祭が六十年ぶりに開催されるのであります。
建長寺から円覚寺を通って大船に向かう小袋谷までを行列行進するのです。
その時の御神輿に御霊を移した木札をお乗せして練り歩くのであります。
県道を封鎖して行うのでかなり大がかりなものであります。
円覚寺には天保一一年(一八四〇)に行われた行列の様子を書いた板絵や、明治三十三年(1900)に行われる予定が翌年になった時の絵巻物が残っていますので、そんな資料を参考にしながら、地元の方々も熱心に準備してくれています。
神社とお寺と、地元の方々が一体となって行う大行事です。
今から楽しみであります。
横田南嶺