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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.09.19
今日の言葉

一坐一拝の心

先日は、大阪天正寺住職の佐々木奘堂さんにお越しいただいて坐禅の講座を行ってもらいました。

今回で第三十回となります。

今回のテーマは、「一刀一拝(一坐一拝)に生きる」であります。

まずはじめに第1回全日本テニス選手権・男子シングルス優勝者である福田雅之助先生の言葉を紹介してくださいました。

「この一球は絶対無二の一球なり
されば身心を挙げて一打すべし
この一球一打に技を磨き体力を鍛え精神力を養うべきなり
この一打に今の自己を発揮すべし
これを庭球する心という」

という言葉です。

八月に私が一燈園で話をした時に語った

「腰を立てるとは、単に身体の腰の問題でなく、(必ず死ぬ自分が人生二度なしを深く自覚し、何のために生きるのか真剣に取り組み)今与えられた場所で精一杯生きる、その強い意志を確立することが、『腰が立つ』ことである」

という言葉も紹介してくださいました。

これは長年探求してきて、つくづく感じることなのです。

腰を立てるということは、単に腰骨をどうこうするということではなく、まず「よしやってやろう」という気概が自ずと腰を立たしめるのであります。

この内面から来る気概がないと、いくら身体をどうこうしてもすぐにもとに戻ってしまいます。

実に腰を立てるということは、生きる姿勢そのものだと思うのであります。

芥川龍之介の『侏儒の言葉』から、

「我我の魂はおのずから作品に露(あらわ)るることを免れない。

一刀一拝した古人の用意はこの無意識の境(きょう)に対する畏怖を語ってはいないであろうか?」

という言葉を引用して一刀一拝ということを話してくださいました。

『広辞苑』には、「一刀三礼」という言葉が載っています。

これは「仏像をきざむのに、一刀を入れるごとに、三度礼拝すること。」であり、一刀三拝ともいうのです。

一刀を入れるごとに、丁寧に礼拝する心で行うことであり、その一刀一刀が礼拝そのものなのだと奘堂さんは説いてくださいました。

それから芥川龍之介の『雑筆』にある蓋置きの話が印象に残りました。

「「芥川が、ある人の家で、茶釜の蓋置きを三つ見た」

それが三つとも形が違う。

違うといった所が五徳同様ゆえ、三本の足と環 (かん) との釣合いが、わずかに違っているに過ぎない。

が三つとも明らかに違う。

見ていれば見ている程いよいよ違いが甚 (はなはだ)しい。

一つは荘重 (そうちょう) な心もちがする。

一つは気の利いた、洒脱(しゃだつ)な物である。

最後の一つは見るに堪えぬ。

これほど簡単な物にもこれほど出来の違いがあるかと思ったら、何事も芸道は恐しい気がした。

一刀一拝の心もちが入るのは、 仏(ほとけ)を刻む時ばかりでないという気がした。…

考えれば考えるほど、いよいよ底の知れなくなるものは天下に芸道ただ一つである。」

という言葉です。

茶道でつかう釜の蓋置きでも、これほどの違いがあるというのです。

些細なものでも、そこに一刀一拝の心が入っているのと、いないのとでは、その差が歴然としているのです。

そこから奘堂さんは、私たちの一回一回の坐禅にも、このように一刀一刀礼拝の心で行うことが必要だと示されました。

そこで奘堂さんは、福田雅之助先生の言葉にならって、

この一坐一拝は絶対無二の一坐一拝なり
この一坐一拝に全身全霊を打ち込む
この一坐一拝に今の自己を発揮する
この一坐一拝に身も心も放ち忘れる
この一坐一拝に万事行う

という言葉を作られたのでした。

皆でこの言葉も唱和しました。

それから芥川龍之介の「文芸鑑賞講座」にある言葉を紹介してくださいましたが、これが印象に残りました。

「「天才でも非常に努力するのだから」すると我々凡人はいやが上にも訓練を受ける覚悟をしなければなりません。

いや、我々凡人ばかりではない、 如何なる天才も天才以上になる大望を持っていれば、当然訓練を受けた上にも更にまた訓練を重ねるはずであります。

また実際天才の伝記ーたとへば森鴎外先生の「ゲーテ伝」を読んで御覧なさい。

天才とはほとんど如何なる時にも訓練を受ける機会を逃さぬ才能と言うことも出来るほどであります。」

という言葉です。

「天才とはほとんど如何なる時にも訓練を受ける機会を逃さぬ才能」という言葉が特に心に響きました。

奘堂さんは、私のことを「如何なる時にも訓練を受ける機会を逃さぬ才能」があると仰ってくださいましたが、とても天才でもなんでもなく、己愚かなるを自覚してまだまだ足らぬという思いで学ぼうとしているだけなのであります。

たしかにどんな時でも学ぶ機会を逃さないように努力はしています。

今回も礼拝から腰を立てて坐ることを何度も何度も実習しました。

五体投地の礼拝から腰を立てるのであります。

身体を大地に委ねること、無理なく腰を立てることが大事なのです。

そして我々の坐禅では、パルテノン神殿にあったというフィディアスの彫刻には、とても及ばないことを力説されました。

私などが、ディノニソス像の坐り方をいくらまねしても、とても腰が立っているにはほど遠いということであります。

日本には運慶の素晴らしい彫刻が残されていますが、まだまだディオニソス像には及ばないというのです。

今の自分を否定して、まだまだ足らない、及ばないと示してくれるのは有り難いことであります。

奘堂さんの講座は、六月以来ですから、しばらくぶりとなりましたが、大きな力をいただくことができました。

繰り返し拝聴していると、修行僧たちも何か感じるところがあるようであります。

一坐一坐、礼拝の心で丁寧に行うことを肝に銘じました。

 
横田南嶺

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