腰を入れる
講習の前に、修行僧からの要望を聞いて下さいました。
ある修行僧が、足裏三点で床を押すということをいつも習っていて、拇指球と踵は分るのですが、小指球の感覚が鈍いのでどうしたらいいかと質問していました。
これは私なども同じであります。
拇指球という親指の付け根はよく分ります。
踵もよく分ります。
しかし、小指球という小指の付け根の感覚はやはり鈍いものです。
西園先生も誰でもそうなのだと仰ってくださり、私などもホッとしました。
そんな要望もあって、その日の講座の終わりには、この小指球の感覚を徹底的に鍛えてくださいました。
そんな会話のあったあとに、西園先生は、皆に腰を入れて立ってみるようにと指示されました。
腰を入れるということは、どういうことなのか、それぞれに感じていること、思っていることは異なると思います。
私も自分なりに腰を入れたつもりで立っていました。
すると西園先生は一人ひとりの背後に回って、腰を後ろから押して廻られました。
私もかなり押されたなと感じました。
腰を入れると言われて、私は、この言葉に随分と迷わされたものだとしみじみ思っていました。
「腰」というのは何であるか、いろんな意味があると思いました。
単に「腰が痛い」という場合も腰もあれば、うどんを湯がいても、「腰のあるうどんだ」などと言ったりします。
試しに『広辞苑』を調べてみると、実にたくさんの意味があることが分りました。
「①人体の脊柱の下部で、骨盤の上部の屈折し得る部分。尻腰。「腰を下ろす」という風に使います。
②衣服などの腰にあたる部分。また、その辺に結ぶ紐の称。
③建物・建具などの中ほどから下の部分。また、器物などの台脚の部分。
④山の麓に近いところ。
⑤(「腰の力」の意)弾力・粘りなど。「腰の強い餅」という風に使います。
⑥構え。姿勢。腰つき。「話の腰を折る」という風に使います。
⑦和歌の第3句。
⑧兜の鉢の縁に巻いた帯金物。
また助数詞として使うこともあるようです。
肉体の腰にしても、どの辺を腰というのか、人それぞれであります。
また『広辞苑』には「腰」に関連する言葉もたくさんあります。
「腰がある」とは「麺類などに、しっかりした粘りや弾力性がある」ことです。
「腰が砕ける」とは「①腰の安定した姿勢がくずれる。
②物事に立ち向かう勢いが中途でなくなる。意気込みが衰える。腰砕けになる。」とう意味があります。
「腰が抜ける」とは「①驚き・恐怖などにより、立ち上がる力がなくなる。
②精神的な打撃を受けて気力がなくなる。」という意味です。
「腰が低い」とは「他人に対して態度が謙虚である。」ことです。
さて「腰を入れる」には、二つの意味が書かれています。
「①腰を下げて、体勢を安定させる。「腰を入れて投球する」
②本気になる。覚悟をきめてやる。」
ということなのです。
概ね身体的な意味と、精神的な意味とがあることが分ります。
さて私が実に長い間勘違いをしていたのが、「腰を入れる」とは、腰を前に突き出すことだと思っていたのでした。
そうしますと、当然腰がそります。
腰をそらせてお尻を後ろに突き出すと腰が入ったように思っていたのでした。
これも腰を入れよう、入れようと思えば思うほど、腰を前に押し出し、腰をそらせていたのでありました。
たしかにこのようにしますと、下腹が前に突き出されて、しっかり膨らんで充実したように感じるのであります。
下っ腹を前に突き出して坐れともよく言われていました。
腰が引けている状態にある人には、このように腰を立てて下腹を前に出すようにと注意することはいいでしょう。
ちなみに「腰がひける」には、
「逃げ腰になる。積極的にかかわることを避ける。」という意味が『広辞苑』には書かれています。
ところが、この下腹を前に推し出すようにというのをあまりにやり過ぎると、骨盤が後継しそり腰になり、腰に無理な負担がかかるようになります。
少々肉体的な悲鳴があがっていても、これを精神力で克服すればいいと思っていたのでした。
身体の声を聞くとはよく言われることですが、全く身体の声を無視していました。
だんだん年齢と共に腰が悲鳴をあげるようになっていたのでした。
立っている時でも、下腹を前に突き出すようにしていましたので、だんだんと脚がしびれるようになってきました。
長時間正坐して脚がしびれるのと同じ感覚です。
立っていても脚がしびれて、すぐに歩き出せなくなっていました。
今思えば愚かなことですが、そんなことを真剣にやっていたのでした。
しかし、腰が悲鳴をあげて、工夫し直すようになったのです。
そんな二十年以上にもわたる愚かな工夫の反省があったので、「腰を入れる」という言葉には違和感を覚えるようになっていました。
腰は無理なく自然に立つものだと感じるようになりました。
腰骨を立てるという言い方もしますが、これもあまりにも腰が引けて曲がっている人に対して「腰骨を立てましょう」というものです。
すでに腰が立っているのに、更に前に押し出そうとすると無理をすることになります。
むしろ「腰骨が立つ」状態を作るように心がけるようになりました。
腰を入れるのも同じで、腰を入れようというよりも「腰が入る」状態を作ることが大事だと思うのであります。
そんなことを講座のあとに西園先生に申し上げてみました。
「腰を入れる」というと、どうしても無理に力んでしまうことが多いので、「腰が入る」の方がよろしいのではありませんかと伝えてみました。
さすがは西園先生、全国で多くの方々に講習を続けてこられて、一般の方には、「腰を入れる」と言った方が、腰のあり方が変わってきて、「腰が入る」だとあまりに漠然としていて変化が見られないことが多いということでした。
なるほどと思いました。
私などは二十年も勘違いをして無理に力んできたので、「腰を入れる」よりも「腰が入る」の方がよいと思ったのですが、多くの一般の方にとっては、まず「腰を入れる」と言われた方が伝わりやすいのであります。
森信三先生が仰った「腰骨を立てる」も同じであります。
「腰骨が立つ」というよりも「腰骨を立てる」の方が、意識がはっきりします。
ただあまりに過度にやり過ぎないように注意しないといけません。
さて、そうして「腰を入れて」立つことを行ってから、足首回しが始まりました。
これも足首を回すと言葉で言われると、ただ足首をぐるぐる回すだけになってしまいます。
二人ずつ組になって相手の足の裏をもって、自分の手のひらの拇指球で相手の足の拇指球を相手の丹田に向けて押すようにしてまわすのであります。
軟らかくゆっくりとして繊細な動きなのです。
今回も前回と同じように一人ひとりの足にふれて教えてくださいました。
私も修行僧に混じって講座を受けていますので、修行僧の足に触れさせてもらいます。
これもまた普段にはない有り難いことであります。
いつも跣で暮らしている修行僧の足というのは、きれいとは言い難いもので、西園先生に触れていただくのは恐縮なのですが、修行僧にとっては貴重な体験であります。
そうして拇指球、小指球を丹田に向けて軟らかく押してまわすことを行って、その後足の小指を鍛えることを習いました。
そのようにして三時間ちかく講習を受けて最後に腰を入れて立つように言われました。
実に足が大地を踏みしめて微動だにしないように感じます。
小指球もはっきり意識できるのです。
そうして西園先生が一人ひとり腰を後ろから押して廻られました。
今度は、押されても実に軽く押されただけだと感じました。
西園先生に最初と同じ強さで押されたのかと伺うと、同じ強さで押したと仰いました。
こちらがしっかり安定して「腰の入った」状態になったのだと分りました。
今回も最後に皆で坐禅をしましたが、皆足が組みやすくなった、身体が軽くなった、呼吸が深くなった、背筋が伸びるように感じたと言っていました。
翌朝の読経や坐禅でも今までとは違うようになっているのです。
皆姿勢がよくなり、声もよく出ています。
修行僧に聞いてみると、やはり丹田がはっきりしてきて、身体が変わるのがよく分ったと言っていました。
もっとも数日経てばだんだんもとに戻ってゆくのですが、これを幾度も繰り返してゆけばきっと身につくものだと思っています。
横田南嶺