ダンマトーク
このところ、毎年お招きいただいています。
コロナ禍の間は、誰もいない本堂で行ったり、昨年もかなり人数制限をして行ったりとずいぶんと苦労してきました。
今回は、本堂に八十名様ほどお参りいただいての法話となりました。
臨済禅師のことを話したり、盤珪禅師のことを話したり、今年は般若心経について話をしました。
般若心経は、わずか本文二六二文字のお経です。
お経の題などをいれても二百七十六文字です。
原稿用紙一枚にも満たないのです。
しかし、その言葉も難しいものですし、読み解くには仏教学のいろんな知識が必要となります。
丁寧に説いていると時間がかかります。
それを今回は九十分で話をしますので、細かな説明は省いて般若心経から何を学ぶか、どのようにお互いの毎日の生き方に活かしてゆくかという点から話をしました。
そこで「般若心経に学ぶ生き方」と題して話をしました。
ちなみにダンマトークというのは、聞き慣れない言葉ですが、ダンマは法ですし、トークは話なので、ダンマトークで法話ということなのです。
もっともダンマは印度の言葉、トークは英語なので、異なる原語を組み合わせた独自のものです。
毎年お招きいただいているお寺ですし、ご住職の細川晋輔さんとはいつも懇意にしてもらっていますし、お寺の方々もよく存じ上げていますので、気軽にお邪魔させていただきました。
やはり初めての場所に言ったり、初めての方にお目にかかるのは緊張するものですが、馴れたところは気が楽なのであります。
早めについて控え室でくつろいでいると、日蓮宗妙法寺住職の久住謙昭上人が挨拶に見えてくださいました。
久住上人には何度もお目にかかったことがあります。
日蓮宗の方は般若心経を読まないので、私の般若心経の講義にお越しくださるとはとても珍しいことだと感じました。
おうかがいすると、久住上人のお寺で仏教各宗派の方を招いて講座を開いていたとかで、とてもお心の広い方でいらっしゃいます。
年末には佐々木閑先生もお招きするご予定だと伺いました。
久住上人はこの頃、地獄の様子をVRで見てもらうということを行っていらっしゃいます。
私も関心をもっていました。
かつてはお寺に地獄図など伝わっていて、それで子どもたちに悪いことをするとこんな苦しみを受けるとお説教していたのでした。
久住上人にうかがうと、このVRで旅してもらうのは地獄だけじゃなくて、修羅・畜生・餓鬼も含んでいるそうなのです。
生前の行いによって、地獄だけではなく、さまざまな苦しみの世界にも落ちるということを説いていらっしゃるとのことでした。
まだ一般に公開されていなくて、久住上人のお寺でのみ体験できるそうなのです。
そんな会話をするうちに時間となりました。
まず今回は、般若心経の講義といってもその言葉を丁寧に読むのではなく、般若心経から生き方を学ぶものだと伝えました。
そして、まず私たちが普段生きていると思っているのは、実はそれぞれ各自の思いこみの自分を生きているのだと話をしました。
それからその思いこみはどのようにして作られたかと話を進め、更にその思いこみの本質は何かと説いて、最後は、その本質を知ることによって苦しみから解放されることを説くのだとあらかじめ今回の講義の全体像を示しました。
まず思いこみの自分というのはどのように作られたのかというと、それは、五蘊という五つの構成要素によって作られているのです。
まずはこの肉体があります。五蘊の色です。
肉体に眼耳鼻舌身という感覚器官が具わっています。
眼でものを見たり、耳で聞いたり、鼻で嗅いだり、舌で味わったり、皮膚に触れたりするのです。
触れると感じるのです。それが五蘊の「受」です。
感受なのです。
眼で見たもの、耳で聞いたものに、心地よいか、不快かという感受が生まれます。
感じたものについて更に想念が生まれます。
五蘊の「想」です。
心地よいものには、うれしい、楽しい、ワクワクするという思いが生まれます。
また不快なものには、不愉快だ、イライラする、腹が立つという想念が生まれるのです。
更に想念は強い意志を生み出します。
うれしい、楽しい、ワクワクするものには、更に愛おしい、一緒にいたい、もっと欲しいという強い思いを生み出すのです。
不愉快、イライラする、腹が立つものには、更に憎い、排除したい、いなくなればいいという強い意志になるのです。
その結果さまざまな行動を起すようになります。
行動を起す原動力が五蘊の「行」であります。
その結果、認識を生じます。五蘊の「識」であります。
愛おしい人はいい人だと思い、もっと住みたいと思うところは良い場所だと認識し、欲しい物は良い物だと認識するのです。
逆に、憎い人は嫌な人だと認識し、いたくないところは嫌なところと認識し、排除した物は悪い物だと認識するのです。
そのようにして外の世界をすべて自分中心のものの味方で色づけして見ているのです。
その思いこみというのは、変わることのない堅固なものではありません。
無常なのです。刻一刻と移り変るのです。
変わることのない「自分」というものは存在しないのです。
これが真理なのです。
そうして佐々木閑先生の『ブッダ100の言葉』から、次の言葉を引用して示しました。
「無明に支配されている人は、「諸行無常」が理解できず、
そのために「自分=自我」というものに対して誤った認識を持つ。
しかし、ブッダは、そもそも自分などなく、自分中心に世界をとらえるのは、愚かの極みだと説いた。この教えを「諸法無我」と言う。」(201ページ)の言葉を紹介しました。
私たちが自分だと思い込んでいるものは、実は五蘊という五つの条件がととのって、かりにあるように見えているに過ぎないものであり、それは幻のようなものだと説いたのでした。
その幻のようなというのが「空」なのです。
そのように見えているだけで、実体がないのです。
空に浮かぶ雲のようなものなのです。
法燈国師はその『坐禅儀』で坐禅していろんな念が起るのは、晴れた空に雲のわくようなものだと見なさいと説かれています。
雲のようなものですから、無常であり変化するものであり、実体のない無我なのです。
それが空ということです。
そこで、内山興正老師の詩を紹介しました。
内山老師の『大空が語りかける』にある詩であります。
雲ー生命のうたー
天地一杯のところから忽然として浮かび出で
天地一杯のところへ 忽然として消えてゆく雲
ぼんやりとただ浮かび 微笑んでいる雲もあり
坦坦として流れ 飛びゆく白雲もあり
もくもくと沸き立ち 呵呵大笑するもあり
忽ち大雷をよんで怒号するもあり
しとしとと潤す春雨もあり
さめざめと泣く長雨もあり
深い沈黙のなかに悔恨する雪雲もあり
憎悪にみち荒れ狂ってやまぬ台風もあり
すべてを圧殺せんと吹き荒ぶ猛吹雪もあり
そしてすべての雲を融失させ
なんともない
ただ深い碧空となることもあり
天地一杯のところから忽然として浮かび出で
天地一杯のところへ忽然として消えてゆく雲
雲こそは
生きとし生けるもの 在りてあるものの原型
天地一杯こそ
その生命なのではないのか
いろんな想念が浮かびます。
それは喜び、悲しみさまざまです。
もっと言えば私たちの人生そのものも雲のようなものとも言えましょう。
悲しみに打ちひしがれる時もあれば、喜びに舞い上がる時もあります。
もっと言えば、地獄を作り出すこともあれば、餓鬼の世界も作るのです。
しかし、それらはすべて大空から浮かんだ雲のようなもので、また大空に帰るのです。
大空は空そのものなのです。
内山老師は、天地一杯の生命と詠っています。
その広い大空の心に目覚めて、こだわりなくかたよりなく、とらわれなく生きてゆくことを般若心経から学びたいのであります。
横田南嶺