この道を行く
いつも正伝庵を出て、まっすぐ方丈には向かわずに、仏殿のご本尊にお参りしてから臨むようにしています。
仏殿に向かっていると、多くの方が日曜説教の会場となる方丈へ足早に歩いていらっしゃる姿が見えました。
恐らくちょうど電車が北鎌倉駅に着いて、上って見えたのだと思いました。
仏殿にお参りして方丈へ向かおうとすると、恐らく親子と思われる母とご息女が眼に止りました。
先方も、管長だと気がついたようなのでした。
そのまま方丈へ向かおうとも思ったのですが、そのお二人のことが気になって、しばし足を止めて待っていました。
ご夫人は、すでに八十を超えたと仰っていました。
お話をうかがうと、いつも毎朝の管長日記を楽しみに聞いてくださっているようで、是非とも一度直接話を聴こうと思って、今日円覚寺に来たのだということでした。
少しお話をうかがっただけでもお身内にはご不幸もあったようで、いろんなご苦労をなされてきたのだと分りました。
ご息女の方は、なんと花園大学の卒業だというので、不思議なご縁であります。
ご夫人は、なんども、なんども、「ああ管長さまに会えてよかった」としみじみと繰り返しておられました。
八十のご生涯は、いろんなご苦労があったことだろうと察します。
それらを乗り越えて穏やかな御表情をなさっておられました。
会えてよかったと繰り返すそのお姿にこちらも感激しました。
今の方ならば、すぐにスマートホンをとり出して、写真を撮っていいですかと言われることでありましょう。
それもけっこうなことでしょうが、このご夫人は、スマートホンの画像に映すよりも、もっともっと深い喜び、感動を心に刻まれているご様子なのでした。
奥ゆかしく、尊いことだと感激したのでした。
方丈で法話をしていると、後列でおイスに座って聞いてくださっていました。
先日の日曜説教では、心から心へと題して、以心伝心、釈宗演老師の和歌を紹介して話をしたのでした。
心よりやがてこころに伝ふれば
さく花となり なく鳥となる
という和歌であります。
心からこころに伝えてきたのは何であるかを話をしました。
それは『法華経』にある常不軽菩薩の心であります。
常不軽菩薩という方が、経典の読誦などはせず、どんな人でも会う人ごとに、「わたしは、あなたがたを深く敬います。絶対に軽蔑しません。なぜかといいますと、あなたがたはみな菩薩の道を実践して、将来は必ずや悟りを開き、仏になられるからです」と言っては礼拝していたというのであります。
ところがそのように言われても、不愉快に思う者もいて常不軽菩薩を罵ることもありました。
それでも決して怒ることもなく礼拝を続けていたのでした。
そんな『法華経』の話のあとに、山田無文老師の話をしました。
私が山田無文老師にお目にかかったのは高校一年生になってまだ間もない時でありました。
中学生の頃に無文老師が、妙心寺の管長に就任されて、NHKのラジオで「菩提心をおこしましょう」という題でお話をされたことがありました。
そのお話に感動したのでした。
無文老師は、明治三十三年一九〇〇年のお生まれであります。
愛知県北設楽郡武節村というところで、今は豊田市となっています。
御生家は、街道筋で運送問屋をなさっていたそうです。
十四歳の時に上京して早稲田中学にお入りになります。
まだ大隈重信侯がご存命の頃だったというのですから時代を感じます。
無文老師の『わが精神の故郷』(禅文化研究所)には次の話がございます。
『論語』を愛読していた老師は、『論語』のある言葉で、人生について大きな疑いを持たれたのでした。
『わが精神の故郷』から引用します。
「その愛読の書『論語』の中の一節に、こういう言葉があった。
「訟を聴くこと、吾なお人のごとし、必ずや訟無からしめんか。」
わたくしの人生をまず、つまずかせたのは、この言葉であった。
裁判官になって人民の訴訟を聞き、そして正しくさばいてやることは、自分にも他に劣らずできるであろう。
しかし自分の願うところは、そういう訴訟などの起こらない、平和な社会をつくることであるーと孔子はいわれるのである。
わたくしはこの言葉にふれたとき、ひどく考えさせられた。
大きな壁にぶつかったような思いで息をのんだ。
父がわたくしを司法官か弁護士にしたい意思を持っていたので、ことにそう感じたのかも知れないが、この言葉はわたくしの前に、大きく立ちふさがってしまった
訴えのない世界、まことにこれこそ人類の理想ではないか。
裁判や弁護のごときは、一時を糊塗する弥縫策にすぎんではないか。」
というのであります。
そうしてあちらこちらと真実の道を求めまわった末に河口慧海老師にであうのであります。
こちらも『わが精神の故郷』から引用します。
「そのころ本郷の弥生町に、河口慧海老師が雪山精舎を結んで、シャンテデーバの『入菩薩行』というものの翻訳を講義しておられ、わたくしは友人に誘われてその会に参加した。
わら半紙に謄写されたテキストだったが、その中にこういう言葉があったのである。
「この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも跣足で歩ける。が、それは不可能である。
しかし自分の足に七寸の靴をはけば、世界中を皮で覆うたと同じことである。
この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。
しかし自分の心に菩提心をおこすならば、すなわち人類のために自己のすべてを捧げることを誓うならば、世界は直ちに天国になったにひとしい」
というのである。
わたくしはどんなに感激してこの一文を読んだであろうか。
この言葉こそ、わたくしの心に第二の転機をあたえたものであった。」
という話でありました。
私も中学の頃、ラジオでこの話を聴いて感動したのでした。
感動したのですが、まだ心には完全にこの話を受け容れることができなかったのでした。
机上の空論ではないか、きれい事ではないか、こんなことを考えて実際の人生を生きていけるのかという疑問でありました。
一度この老師にであって確かめてみたいと思ったのですが、当時和歌山県新宮市に住む中学生が、臨済宗妙心寺派の管長にあう術はありませんでした。
そんな頃玄峰老師の墓参をしようと思って湯の峰に行きました。
中学の頃に、お寺で玄峰老師の無門関提唱の録音テープを聴いて感動し、お墓にまいりたいと思ったのでした。
そこで玄峰老師のお墓はどこかと訪ねたのが、玄峰老師が常宿になさっていたあずまやの女将さんだったのでした。
その旅館には、無文老師のよくお見えになっていたのでした。
私はお墓参りの後に、その女将さんといろいろとお話をさせてもらったところ、実は今度無文老師がお泊まりになるから、会わせてあげましょうと言ってくださったのでした。
かくして思いがけなくも、高校生になったばかりの私は無文老師にお目にかかることができたのでした。
旅館の一室で控えていて、坐禅をしては、菩提心をおこすとはどういうことか、そんな理想を掲げて生きていけるのか、いろいろと尋ねようと思っていました。
しかし、老師にお目にかかって、そんな疑問は一瞬のうちに消えたのでした。
「菩提心の人を見た」「この道に間違いはない」と確信したのでした。
私がこの道を行くと心に決めたのはこの時でありました。
四十三年前のことであります。
今も懐かしく思い起こします。
横田南嶺