変わらざるもの
菅虎雄の勧めで、円覚寺山内の帰源院に止宿して、当時の円覚寺の管長であり修行道場の師家であった釈宗演老師に参禅していました。
この時の体験は、後の小説『門』に描かれています。
漱石が参禅していたのは、十日ばかりでありました。
『門』に書かれているのは、小説ですから必ずしも事実とはいえませんが、しかし、当時の円覚寺の様子がよく描かれています。
今から百二十九年前の円覚寺の景色であります。
「山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮ぎっているために、路が急に暗くなった。
その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚(さと)った。
静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。
彼はまず真直に歩き出した。
左右にも行手にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。
けれども人の出入はいっさいなかった。
ことごとく寂寞として錆び果てていた。」
というところであります。
杉の大木がたくさん鬱蒼としていて、昼なお薄暗く、人のいない様子がよくうかがえます。
この頃はまだ拝観寺院ではありませんでした。
私が鎌倉にきてからの三十数年でも大きく変わったものでした。
まだ境内は舗装もしていなく、鬱蒼としていたものでした。
大きく変化したのは、やはり下水道の工事をした時に、参道をきれいに整備したのでした。
あわせて境内の電柱もすべて地下に埋設されました。
私が鎌倉に来た頃には、下水道はなく、くみ取り式のお手洗いでした。
修行道場のお手洗いは、修行僧がくみ取りをして畑で肥料にしていたのでした。
それから平成十五年に奥入瀬渓流を観光していた観光客が突然落ちてきたブナの木に当たり、重い障害が残ったという事故がありました。
そして、国、県を訴えたのでした。
結果として、裁判では国、県の責任を認めたのでした。
国と県に管理責任があったということなのです。
それから管理責任ということが言われるようになって、円覚寺でも倒木の危険のある木をあらかじめ伐採するようになりました。
随分と杉の大木が危ないからといって伐られてしまったのでした。
大木も伐られ、参道も舗装されて、明るくきれいな境内になりましたが、かつての鬱蒼として趣は失われてしまいました。
私が、平成十年から住いとさせてもらっている隠寮というところも、はじめは外から見ることも出来ないほど、木々に覆われていました。
漱石の『門』には、当時の釈宗演老師のお住まいである隠寮に至る道筋を次のように描かれています。
「山門の通りをほぼ一丁ほど奥へ来ると、左側に蓮池があった。
寒い時分だから池の中はただ薄濁りに淀んでいるだけで、少しも清浄な趣はなかったが、向側に見える高い石の崖外(がけはずれ)まで、縁に欄干のある座敷が突き出しているところが、文人画にでもありそうな風致を添えた。
「あすこが老師の住んでいられる所です」と宜道は比較的新らしいその建物を指さした。」
とあります。
そこから当時の釈宗演老師にお目にかかるのであります。
『門』には次のように書かれています。
「老師というのは五十格好に見えた。
赭黒(あかぐろ)い光沢(つや)のある顔をしていた。
その皮膚も筋肉もことごとく緊しまって、どこにも怠たりのないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。
ただ唇があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛みが見えた。
その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩が閃めいた。
宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。」
というのであります。
五十歳くらいに見えたという宗演老師ですが、その時には満三十四歳であります。
そこで、『門』には、宗演老師から「父母未生以前本来の面目」という公案をいただいたのでした。
先日いただいた『安倍能成選集第一巻』にある「或る禪坊の焼失」には、ちょうど百年前の円覚寺の續燈庵の様子が書かれています。
「この寺は圓覺寺の正門をはひつて一番奥の黄梅院といふ寺の左側にある。
藁屋根の門の前は坂になって、門の眞近には一叢の竹が生えて居る。
そこをはひると又石段を上って、正面に本堂があり、その右側面に庫裡の前には小さな塗池があったり、盆栽が置かれたり、所々に花が植ゑられたりして、いつも綺麗に掃除されて居る。
禪寺の落著を減じて峠茶屋の明るさを加へたやうな趣のある處であった。」
というのであります。
そんな續燈庵の一室に安倍能成氏は住んでいたのでした。
「…圓覺寺の寺内でもここはまあ一番位置の高い方であつて、そこからは一面に山内の青葉が見渡され、縁側に立ちでもせねば外の寺坊の屋根も殆ど見えない。
この部屋に居ると小さいながら全く周囲と放たれた気になって、心持がよく纏まり、落着が得られた。
東京に居ると本を読んで居ても、ぼんやり考へて居ても、朝寝をして居ても、昼寝をして居ても、何かしら後から追っかけられるやうな焦燥をなくするのが六ケしいが、ここに居ればそれがない。」
という静かな日々を送っていたことが分ります。
そんな静かな日をその年の関東大震災が奪ったのでした。
さて円覚寺の景色も、百年前に比べるとすっかり様変わりしました
夏目漱石や安倍能成が今円覚寺に来たら、きっと驚くことでありましょう。
しかし、今も同じように「円覚寺」と呼んでいます。
そこに変わらざるものはあるのでしょうか。
あるとすれば、何でしょうか。
それこそが「父母未生以前本来の面目」と名付けるものでしょう。
横田南嶺