天地いっぱいのいのち
手桶に水を汲むことによって水が生じたのではない
天地一杯の水が手桶に汲みとられたのだ
手桶の水を大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が天地一杯の中にばら撒かれたのだ
人は生まれることによって
生命を生じたのではない
天地一杯の生命が
私という「思い固め」の中に汲みとられたのである
人は死ぬことによって生命が無くなるのではない
天地一杯の生命が私という「思い固め」から
天地一杯の中にばら撒かれるのだ
天地一杯の命というのは、内山老師がよく使われた表現です。
春秋社には『天地いっぱいの人生』という本も出されています。
そこには、
「われわれの生命はどうせぶっ続きなのだ。
オレ、オレという、そのオレではない。
皆ぶっ続きの生命を生きている。
あれかこれかではない。あれもこれも生きている。
仏教の話はあれかこれか、マルかバツかという分別知ではない。
あれもこれも生かすなかに私も生きているということです。
あいつは殺さなければならん、オレだけ生きるのだというのでは、やがてオレも殺される。
あれもこれもみんな生かすなかに、オレも立派に生きているのです。」
と書かれています。
ぶっ続きの生命というのも内山老師独自の表現です。
命は、単独では成り立たない、つながりあいの中でこそ生きられることを表わしています。
先日上京した折に、書店を訪ねました。
久しぶりのことであります。
この頃町の書店がなくなっているということよく言われます。
鎌倉でも長年続いていた書店が数年前に閉店となっていました。
子どもの頃から、書店と図書館に行くのが何よりの楽しみだった私にとっては、寂しいことであります。
ふるさとの小さな書店で、朝比奈宗源老師の本にも出会い、坂村真民先生の本にも出会ったのでした。
内山興正老師の本もよく読んだものでした。
狭い通路で、本独特の匂いのたちこめる中、あれこれ本を見るのが楽しみでありました。
小さい本屋でしたが、仏教系の書物が充実していたのでした。
こうして今日あるのは、あの本屋があったおかげだと今になるとしみじみ思います。
初めて上京して大型の書店を訪ねた時には驚いたものでした。
仏教書だけでもたくさんございます。
先日も大型の書店を訪ねたので、仏教書がたくさん並べられていました。
この頃は、私の本もけっこうたくさん置いてもらっていて恥ずかしく思います。
禅の書物を見ていると、内山興正老師の本も何冊もございました。
内山老師は平成十年にお亡くなりになっていますが、今も読み継がれているのだと思いました。
『内山興正老師 いのちの問答』という本が目にとまったので購入してきました。
本が売れないとよく耳にしますが、大型書店ではレジに行列ができるほどであります。
この本は平成二十五年に大法輪閣から出版されたものです。
内山老師が、どんな方なのか、この本の著者略歴には、
「明治四五年、東京に生まれる。
早稲田大学西洋哲学科を卒業、さらに二年間同大学院に在籍後、宮崎公教神学校教師となる。
昭和一六年、澤木興道老師について出家得度。
以来坐禅修行一筋に生き、昭和四〇年、澤木老師遷化の後は、安泰寺堂頭として十年間弟子の育成と坐禅の普及に努める。
平成十年三月十三日、示寂。」
と書かれています。
明治四十五年のお生まれで、昭和十六年に御出家されていますので、二十九歳で出家されているのであります。
安泰寺の堂頭さまとして指導なされていらっしゃいました。
私も是非とも一度お目にかかっておきたいと願っていた老師でありましたが、ご縁がありませんでした。
藤田一照さんは、直接何度もお目にかかっておられるそうであります。
『内山興正老師 いのちの問答』は、内山老師のお弟子の櫛谷宗則さんが編集されています。
櫛谷さんは、昭和二十五年のお生まれで、十九歳で内山老師について出家された方であります。
澤木興道老師の本も多く出されています。
『内山興正老師 いのちの問答』にあるいくつかの言葉を紹介します。
「すべての出来事は生命に映った風景。坐禅に立ち戻ったとき、悲しかったのもフッと消える。嬉しかったこともフッと消える。
動揺するのは、アタマだけがアテをえがいて動揺する。
坐禅はアタマを手放しにすること(不思量底)に、骨を折ること(思量)。
ウマイ、マズイの分別をやめて(不思量底)、とにかくやる気でやる (思量)、ただやる(非思量)。
思いを手放して自己の深さに入っていけば、自己を生かしている無量無辺の生命の力がある。
結局、物足りよう物足りようとしていたので、澤木興道老師の言葉「仏法は無量無辺、小さなお前の物足りようの思いを物足りさすものであろうはずがない」が、ピタッときた。
自分をなんとかしよう、なんとかできると思っていたのが間違い。自分の思いも大自然的生命。 自分でどうこうしようと思って、できるはずがない。
始末がつかないままそこに落ち着く。物足りないまま落ち着く。そういう手放しに落ち着くのが坐禅。
仏法とは自己を手放しにすること。
坐禅していて何も追わない。その姿勢が自性清浄心。
ほらほら、坐禅してちょっとでもよくなろうと思っていると、盗人根性をもっていると、間違う。
坐禅のルールは、身体で坐禅の姿をただ守ること。 居眠りではない、考えごとではない。
本当の価値は、自分が自分を生きること。それは絶対に代われない。自分の存在価値を自分のなかに見出す。
他人によって救われる人はいない。自分は自分を生きるよりほかしょうがないのだというところに、安心を見出す。
自己ぎりの自己のなかに、本当の自己の生き甲斐が備わっている。それを自覚するのが求道者だよ。外側の幸福を追い求めているのはコマネズミのようなものだ。
オレ自身の行き着くところへ行き着く。自分の問題は人が代わってくれない。根本は人から与えられるものではない。」
という言葉が書かれています。
「アタマを手放しにする」「思いを手放しにする」というのも独自の表現です。
あれこれと考えることを手放しにするのです。
分別したり、比べたりすることを手放しにするのです。
それは「物足りようの思い」から離れることであります。
悟りを求めようという思いすら、「物足りようの思い」なのです。
物足りようの思いを何かで満たそうとするのではなく、物足りないままで落ち着くというのであります。
坐禅してよくなろうと思うのは、盗人根性と言われてしまいます。
「自己ぎりの自己」というのも内山老師が説かれた言葉です。
外側に幸福を求めるのではなく、自分が自分を生きるのが坐禅なのです。
久しぶりに内山老師の本を読んで、ふるさとで内山老師の本を読んでいた頃を思い出していました。
天地いっぱいの命を生きるということを改めて自分に言い聞かせています。
横田南嶺