あらしのよるに
小池さんのお寺の須磨寺で十月十四日に、「えほん寺ピー」という催しがなされるという話がありました。
第三回目なのだそうです。
絵本セラピーの岡田達信さんがなさっているものです。
絵本というのは、分りやすくて深いものがあります。
子どもだけでなく、大人が読んでも深く感動します。
その絵本寺ピーでは、小池さんの法話や岡田先生との対談もあるとのことでした。
そんな十月の企画を小池さんが紹介されて、最近読んだという絵本の話になっていました。
それはとてもよく知られた絵本で、なにを今更と言われそうだと仰っていましたが、私は恥ずかしながら、その絵本のことは知りませんでした。
『あらしのよるに』という絵本なのです。
一九九四年に第一巻が出されていて、第七巻まである絵本であります。
木村祐一さんという絵本作家によるものです。
一九九五年には産経児童出版文化賞、講談社出版文化賞絵本賞などを受賞されています。
二〇〇五年には、映画化もされています。
絵本が出版された頃、私は円覚寺の修行僧であり、映画化された頃は、修行道場の指導者でありましたので、絵本も映画も見る余裕は全くありませんでした。
今修行道場にいる者に聞いてみると、知っているという者が多かったので、やはり有名だったことがわかります。
小池さんが感動されたというので、早速絵本を取り寄せて読んでみました。
小池さんが涙を禁じ得なかったと仰っていましたが、私も同感でありました。
久しぶりに深い感動をいただくことができました。
絵本ですので、その内容を詳細に語ることはできないのですが、小池さんが法話で話されていた程度のことを紹介してみます。
ある嵐の夜、ヤギのメイが山小屋に避難しました。
同じくオオカミのガブも同じ山小屋に避難してきました。
真っ暗な闇の中なので、お互いの正体を知りません。
ヤギの方は、相手もヤギだと思い、オオカミは相手もオオカミだと勘違いしていたのです。
そのまま夜通し語り合い、意気投合して、翌日また会う約束をしました。
その時の合い言葉が「あらしのよるに」でありました。
翌日、二匹は出会いました。
昼間ですので、お互いの正体を知ることになりました。
お互いとても驚きます。
オオカミはヤギを食べる方ですし、ヤギはオオカミに食べられてしまう側なのです。
しかしそれでも二匹はお互いともだちとなったのでした。
その後もひそかに何度も会うようになって友情は深まっていったのでした。
時にはオオカミが、ヤギのメイがおいしそうで食べたくなったりしますが、そんな欲望を乗り越えて友情を深めたのでした。
しかし、オオカミは他のオオカミにヤギと友達とは決して言えませんし、ヤギもまた恐ろしいオオカミが友達だとは言えないのです。
二匹の友情は、他の仲間には受け容れられません。
ところが、二匹が会っていることがばれてしまい、二匹で逃げようということになっていったのです。
これは二匹の深い友情の話なのですが、私は五蘊ということを改めて思いました。
お互いが生きている世界は五蘊の世界なのです。
互蘊は岩波書店の『仏教辞典』には、
「人間の五つの構成要素。
色(しき)蘊・受(じゅ)蘊・想(そう)蘊・行(ぎょう)蘊・識(しき)蘊をいう。
…<蘊>は集積、全体を構成する部分の意。
<色>は感覚器官を備えた身体、
<受>は苦・楽・不苦不楽の三種の感覚あるいは感受、
<想>は認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用、
<行>は能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求、
<識>は認識あるいは判断のこと。
人間を<身心(しんじん)>すなわち肉体(色)とそれを依り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、この五つにより個人の存在全体を表し尽していると考える。」
と解説されています。
まず嵐の夜には、耳でお互い相手の声を聞きます。
耳のある身体が色です。
耳で聞くのが受です。
ヤギは相手がヤギだと思い、オオカミはオオカミだと思うのが想です。
お互いに仲良くしようと思うのが行です。
そしてお互いは仲間だ友だと認めるのが識なのです。
そして、お互いの世界を作り上げています。
明くる日にまた出会ったのでした。
今度は目で見るのです。
目のある身体が色です。
目で見るのが受です。
ヤギは相手がオオカミだと思い、オオカミは相手がヤギだと思うのが想です。
ヤギは逃げようと思い、オオカミは食べようと思うのも行ですが、先の認識がはたらいて、やはりお互いは友だと思い、これからも仲良くしようと思うのが行です。
そしてやはりお互いは友だと認識するのです。
絵本では後半にオオカミは雪崩に巻き込まれて記憶を失います。
友だという識が無くなると、次にヤギのメイを見ると、エサにしか見えなくなるのです。
また記憶を思い起こすと、メイは友だと見えるのです。
お互いはこの五蘊の世界に住んでいることがよく分ります。
ダライラマ猊下は著書の『般若心経を語る』で、
「われわれ、自分自身の存在も、世界も宇宙も一切がこの五蘊の各要素からできている。
大切な事は、五蘊のほかには全宇宙に何もないということである。」
と語っていますが、その通りなのであります。
かつて花園大学で、「自分が変われば世界が変わる」という言葉をよく使っていました。
その言葉が題名の本もあるほどです。
自分が世界を作っているのです。
詳しくいうと、各自の五蘊が各自の世界を作り上げています。
その五蘊の作った世界の中にお互いは生きているのです。
いくらガブとメイがお互い友だと言っても、他のヤギやオオカミには、決してそうは見えないのです。
それぞれの五蘊の中で生きているのです。
『華厳唯心偈』という百字から成るお経を思います。
心は工なる画師の如く
種種の五陰を画き
一切世界の中に
法として造らざるなし。
という一文から始まります。
詩人の坂村真民先生は、この『華厳唯心偈』の意訳を作られています。
真民先生の意訳を全文を紹介しましょう。
第一節
心というものは上手な絵かきのようなもので、五陰(陰の字をおんと訓む。般若心経の冒頭に出てくる五蘊と同じく、色、受、想、行、識の五つをいう)つまり、形あるものも形なきものも画き出すのである。
だから、この世界の森羅万象すべては、心というものが根底にあって成立もし、具現もしているのである。
第二節
だから、仏といい、生きとし生けるもろもろのものといい、みな心というところから出ているので、そこには何の差別もないのである。
第三節
仏といわれる悟りを開いた方々はみな、万象は心が中心となり展開し活動しているものであることを、よく知っておられる。
このことがわかれば、その人は真の仏とは何であるかを、はっきりと見得することができるであろう。
第四節
このようなことがわかったら、心も体にとらわれなくなり、体も心にとらわれなくなり、なにをするにも、悟った方がなさるような自由な境地になり、いまだかつてない自在な世界が展開してくる。
第五節
だから、みなさん、過去現在未来のたくさんの仏さまをよく知ろうと思うなら、このように正しく観知しなさい。心というものが、三世一切のもろもろの仏さまを作り出していることを。
こうして正しく見ることが正見です。
同じヤギでもオオカミを見て、敵だという対立の世界を作り出すこともあれば、友情の世界を作り出すこともあるのです。
小池さんは、この絵本を通して不邪見ということを説かれていましたが、正しく見ることが大切なのであります。
『あらしのよるに』という絵本を通して深い感動と共に、五蘊が世界を作ることを学び直しました。
横田南嶺