無我とは
先日のモラロジー道徳教育財団の講演の折にいただいた『総合人間学 モラロジー概論』には、
「自我を没却すれば、何よりも創造性が芽生えます。」という言葉がございます。
そして更に「自我没却により、宇宙自然の法則を明晰に理解し、自己中心の利己的な精神をよくコントロールして、すべての人々のいのちを真に伸ばすための門の前に立つことになります。
いいかえれば、私たちの精神は低くて偏った水準から解き放たれます。
そして、聖人の卓越した精神を通して神仏の心を学び、 万物を生成化育し、善を増産する宇宙自然の創造的な働きに参画するための心の準備が整います。」
と書かれていて、そのあとに、孔子の言葉が紹介されています。
それは「意なく必なく固なく我なし」という言葉です。
「これは真理を愛し、自己流の判断や欲の心による束縛から離れて、物事を広く柔軟にとらえる無私・無我の心を確立するという意味です。」
と解説されています。
『論語』のこの言葉について調べてみます。
まず金谷治先生の現代語訳を岩波文庫の『論語』から引用しますと、
「先生は四つのことを絶たれた。
勝手な心を持たず、無理おしをせず、執着をせず、我を張らない。」
と書かれています。
手元にあるいくつかの『論語』に解釈を参照しましょう。
宇野哲人(うのてつと)先生の『論語 上』(明徳出版社)には、
「意というと自分の考え、我々は誰でも意志をもっております。
自分の気持はございます。
ここの意なし、というのは個人的な私意の意味です。
何かについて自分の一定の意志をもっている。
意志のないということは誰だってございませんから、それは孔子だってあったに違いありません。
どうも自分一個の意志がありますと、自然それにこだわる。
是非それをやりたい。どこまでも固くそれをやりたい。
そしてついに我意を通す。ということが通常です。
孔子はそうではなかった。
はじめから私意私欲の念がないから、是非それをしてはならないという気持はおありにならないし、頑固にそれをやり通さなくてはならないというお気持もなく、いわゆる我欲というものがなかった。
この意・必・固・我の四つは、意があれば当然、是非やろうということになる。
是非やろうと思えば固くとって動かない。
そして次に我意を通すというようにこれはずっと連絡しているようです。
それが孔子はなかったということで、終始孔子の考えは公平無私な、後世の言葉で申しますなら、いわゆる天理に従っておられたもののようです。」
と説かれています。
明治書院の『新釈漢文大系 論語』には吉田賢抗先生の解釈がございます。
「孔子は常人の陥り易い四つのものを絶ち切って、きわめて円満であった。
四つとは、主観的な私意、必ずやり通そうとする無理押し、頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ、自分のことだけを考える我執。」
というものです。
「意」とは、朱子の註には「私意」とあり、「自分勝手に信偽成敗を思いめぐらすこと」です。
「必」とは朱注に「期必」とあり、これは「必遂」で、きっとやり通そうとする無理押しです。
「固」とは、朱注に、「執滞」とあって、これは「執着するかたくなさ」です。
「我」とは、「自分というもの」であり、「おれが」という「我」だと解説されています。
仏教で説く「我」とは、「常一主宰」であって、常に変わることなく、単一で成り立ち、あらゆるものを思うままにする実体のことを言います。
仏教ではかなり哲学的に説かれているのに対して、ここでは実践的に説かれていることが分ります。
『総合人間学 モラロジー概論』には、自我とは、
「一般に哲学や心理学において人間を示す基本の概念で、考え、行動する主体を指す。
しかし、日本では元来、仏教の影響のもと、自我は、我を張る、我を通す、我流、我執などの表現に見られるように、つねに自己中心性を宿し、様々な悩みや問題を生み出しているとして否定され、無我となることが提唱されている。」
という解説があります。
仏教の場合は、無我となるというよりも、我は存在しない、無我であると正しく知ることを大切に説いています。
またモラロジー道徳教育財団の『最高道徳の格言』には、
「意」とは、自分の主観だけで判断するということです。
「必」とは、自分の考えを無理に押し通すことです。
「固」とは、一つの判断に固執することです。
「我」とは、自分の立場や都合だけを考えることです。
したがって「意なく必なく固なく我なし」とは、自分勝手な考え、無理押し、頑固、自己本位の行動がまったくなく、自然の法則に従って生きるということです。
いいかえれば、広い視野に立って客観的に物事を判断し、他人の意見に十分に耳を傾け、そして、すべてのことに広い心をもって柔軟に対応し、どのような場合でも相手の立場を思いやって行動することです。」
と説かれています。
仏教では、やはり正しく道理を観察して、単一で存在する我は無いと見てとり、常にまわりのものとの相依相関の関係にあることを正しく理解して、今の自分はどのように行動したらいいか、自分の行動が周囲にどういう影響を与えるかをよく理解して、なすべき行動をとるということを大事にしています。
正しく修行して、その智慧によって、恒常不変の自我が実在するのではない、すなわち無我であると気づくことを第一にしています。
横田南嶺