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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.08.20
今日の言葉

心から心に伝える

「以心伝心」という言葉があります。

まずは『広辞苑』で調べてみると、

「禅家で、言語では表されない真理を師から弟子の心に伝えること。」というのが一番の意味として書かれていて、

それから二番目に「思うことが言葉によらず、互いの心から心に伝わること。」という解説があり、「以心伝心で通ずる」という用例が示されています。

岩波書店の『仏教辞典』には、もう少し詳しく解説されています。

「こころからこころに伝える」ことと端的に示されていて、

更に「禅では、真理の伝達は体験により、文字や言葉によらない、という意味を端的にあらわした語。

禅宗は、経典に根拠を求める諸宗を批判し、根本の仏法は拈華微笑(ねんげみしょう)により釈尊から摩訶迦葉に伝えられ、それが菩提達摩によって中国に伝えられ、以心伝心によって相伝されていると主張した。

<不立文字><教外別伝>と同義。

現今では、文字や言葉によらなくても、心の中はそれとなく自然に伝わるという、一般的な意味に用いられる。」

という解説があります。

拈華微笑の話は、『無門関』の第六則として知られています。

意訳しますと、お釈迦様が霊鷲山で開かれた法会の席で、花を手に取って聴衆に示されたところ、皆黙ってしまいました。

ただ迦葉尊者だけは、にっこりとほほ笑まれました。

そこでお釈迦様は、

「私に正法眼蔵、涅槃の妙なる心、実相無相、微妙の法門がある。文字を立てず、教えの外で別に伝えるものだ、それを今迦葉尊者に托す」と仰せになったのでした。

『禅学大辞典』には、「以心伝心」について、更に詳しく説かれています。

「経論によらずに、師と弟子が相い面して心から心に佛法の義を伝える意。

釈尊が霊鷲山に在り、八万の大衆に向かって華を枯じたところ、ただ迦葉のみその意をさとって微笑したという故事から、禅門歴代の祖師は、この主張のもとにことばや文字によらずに大法を伝えてきた。」

と解説されています。

そのあと、『禅源諸詮集都序』からの引用文があります。

『禅源諸詮集都序』は圭峯宗密の著であります。

圭峯宗密は、西暦七八〇年に生まれ八四一年に亡くなった方です。

『禅源諸詮集都序』で「以心伝心」が説かれているところを意訳してみます。

達磨大師は、法を天竺で受け継いで、自ら中国に赴いてみると、当時の中国の僧達は、まだ法を得ていないでいるし、ただ名数を解釈して、表面の姿を学んで行じているだけだというのを見て、月を指す指は月ではない、法というのは我が心であることを知らしめようとして、ただ心を以て心を伝えただけで、文字を立てなかった。

ということなのであります。

『禅学大辞典』にもお釈迦様と迦葉尊者の逸話が示されていますが、この話がいったいどこに出典があるのか、不明でありました。

古来『大梵天王問仏決疑経』にもとがあると言われていましたが、この頃の研究によって、この経典は、禅宗でこの話が流通した後に作られたものであることが分ってきました。

古い経典ではないようなのです。

黄檗禅師の『伝心法要』には「以心伝心」が二カ所説かれています。

これも「以心伝心」が説かれている箇所の現代語訳を、筑摩書房『禅の語録8』にある入矢義高先生の訳文を参照します。

「真の修道者は、ずばりそのままに無心となって、体で合一するだけである。

もし、そこにチラリとでも心の志向が働けば、そのとたんに的はずれである。

心から心への直の伝え方、、これこそが「正見」ー純正な見地である。

ゆめゆめ外に向かって対象を追いもとめ、そのような客体を心と取りちがえてはならぬ。

そんな仕業は、盗賊をわが子と感ちがいするのも同然だ。」

というものです。

更に、

「問い、「頼るもの執着するものが全くなければ、いったい何を継承したらいいのです。」

答え、「心を心に伝え承けるのだ。」

問い、「心から心への相伝というのでしたら、なぜまた『心さえない』とおっしゃるのですか。」

答え、「法として何ひとつ得るものがない、というのが伝心のあり方だ。

もしこの心をものにしたら、そのまま心もなく法もない。」

問い、「心もなく法もなければ、どうして〈伝える〉ことがあり得ましょう。」

答え、「君は〈伝心〉と聞いて、何かそこに得られるものがあると考え違いをしている。だから祖師は言われた、

『心の本質を見て取った時、ただ不可思議と言うがよい。

ひっきょう何の得たものもそこにはない。

得たとしても、それを知っているとは言わぬ』と。

ここのところを君にわからせようにも、とても出来ぬ相談だ。」

と説かれています。

文字に依らず、書物にも依らずに心を伝えるというのは、なかなか難しいものです。

唐代の禅僧龍潭崇信禅師が、天皇道悟禅師に参じた時の逸話があります。

龍潭禅師は、天皇禅師のもとに入門して修行を始めたものの、天皇禅師は何も教えてくれませんでした。

ある日のこと、思いあまって龍潭禅師は、天皇禅師に「私はここに来てからまだ何も大切な教えをいただいていません」と訴えました。

天皇禅師は、「あなたが入門してから、私はあなたに大切な教えを示さなかったことはない」と答えます。

そう言われても分らぬ龍潭禅師で
は、「いつ、どこでお示しくださったのですか」と問います。

天皇禅師は、「あなたがお茶を持ってきてくれたら、私は有り難くお茶をいただいている。あなたが食事を持ってきてくれれば私は有り難くいただいている。あなたが挨拶してくれたら、私はそれに答えているではないか。いったいどこに大切な教えを示していないことがあろうか」と答えました。

そう言われても龍潭禅師は即座には分りません。

天皇禅師は「真理を見るならすぐにそのまま見よ、あれこれ思い計ってはいけない」と言われて、ようやく龍潭禅師も気がついたのでした。

この逸話などは「以心伝心」の消息をよく表わしています。

禅の教えは文字や言葉で表わしているのではありません。

お茶をもってくる、そのお茶をいただく、食事の支度をする、その食事をいただく、おはようと言えば、おはようと答える、日常の暮らしの到るところに禅の教えは満ちあふれています。

禅は、そんな日常の暮らしの中で、心から心に伝えてゆくのです。 

 
横田南嶺

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