自我を没却し慈悲心を体現する
モラロジー道徳教育財団が開催しているモラロジー生涯学習講座という会であります。
モラロジー道徳教育財団というのは、どういう組織なのか、私も残念ながら存じ上げていませんでした。
ホームページによれば、
「公益財団法人モラロジー道徳教育財団は、モラロジー(道徳科学)および倫理道徳の研究と、これに基づく社会教育を推進する研究教育団体です。
大正15(1926)年に法学博士・廣池千九郎によって創立、以来、一貫して人間性・道徳性を高める研究・教育・出版・福祉事業を展開しています。」
というものであります。
大正十五年に創立されたというのですから、ずいぶんと歴史のある組織なのであります。
麗澤大学の構内にある廣池千九郎記念講堂で行われました。
さて、この廣池千九郎という方についても私は存じ上げませんでした。
今回のことがご縁で少し学ばせてもらいました。
講演の前にほんの少し時間があったので、廣池千九郎記念館を見学させてもらいました。
この麗澤大学というのも廣池千九郎が創立されたものなのです。
麗澤という言葉は見慣れないものですが、大学のホームページによると、
「「麗澤」という語は、中国の古典『易経』の
「象(しょう)に曰く、麗(つ)ける澤は兌(よろこ)びなり、君子以て朋友と講習す」という言葉から取ったものです。
この言葉は、「並んでいる沢が互いに潤し合う姿は喜ばしい。
立派な人間になろうとする者が志を同じくする友と切磋琢磨する姿は素晴らしい」と説明されています。
本学の創立者廣池千九郎は、これらの精神を
「麗澤とは太陽天に懸りて万物を恵み潤し育つる義なり」と説明しています。」
と解説されています。
現在大学には二千五百名ほどの学生が学んでいるとのことで、私が総長を務める花園大学よりは規模の大きい大学であります。
近年新たな学部を新設し更に新しい学部を作られるとのことで、大学としては勢いがあるのだと感じました。
今各大学は厳しい状況に置かれていますが、定員も満たしているとのことであります。
創立された廣池千九郎という方は、慶応二年一八九六年に大分県中津に生まれた方であります。
農家のお生まれだそうです。
お父様はたいへん信仰心が深く、教育にも理解があったそうです。
そしてお母様は、親孝行で中津藩から表彰されたこともある家の出身で、「孝は百行の本なり」(親孝行はすべての行いの基本である)という言葉を子供へのしつけの中心としていましたという話を記念館でうかがいました。
十四才で母校永添小学校の助教を勤め、十九才で形田小学校の訓導として奉職したそうであります。
教科書もお作りになっていたとのことをうかがいましたので、お若い頃からとても聡明な方だったのだと分ります。
一時、漢学者小川含章の私塾である麗澤館に入塾して学ばれたこともあるそうで、恐らく「麗澤」という語には、この頃から影響を受けていたのだと思われます。
その後、教育者として精力的に活動なされて、早稲田大学講師や神宮皇学館教授などを務められたそうです。
『古事類苑』という全一千巻の書物が明治政府によって編纂されましたが、廣池先生は、その編纂にも携わり、約四分の一を編纂されたとのことでした。
廣池先生は、それまでの多年にわたる研究や自らの様々な体験を通して、「慈悲寛大自己反省」という道徳的精神が、日本の精神文化の淵源にあることに目覚めます。
そしてそれが普遍的に見ても人類の幸福の基盤になることを確信したそうです。
そのようにして人々の悩みや苦しみを根本的に救う道を道徳に求めました。
廣池先生は、質の高い道徳を現代に再興する必要性を感じ、道徳の科学的研究に取り組まれました。
そして『道徳科学の論文』という大著を著されました。
昭和10年(一九三五)4月、廣池先生は現在の千葉県柏市に道徳科学専攻塾を開設しました。
これが今の麗澤大学となっています。
斎藤實前首相や若槻礼次郎元首相などの総理大臣経験者が来塾したり、皇族の賀陽宮恒憲王が来塾されたりしたということでした。
ほんの短時間、記念館で説明を受けたのですが、偉大なる人物であることがよく分りました。
そして、その創立した大学で今も多くの学生達が学び、そしてモラロジー道徳教育財団では広く多くの世間の人も学んでいることに感銘を受けました。
講演の帰りがけに『総合人間学モラロジー概論』と『最高道徳の格言』という書籍を頂戴しました。
『最高道徳の格言』は廣池先生の大著『道徳科学の論文』第二巻「最高道徳の大綱」から言葉を抜き出して解説を加えてくれたものです。
この本の巻頭には、
「天爵を修めて人爵これに従う」の一語が説かれています。
これは『孟子』告子上篇にある言葉です。
本書の解説によれば、
「孟子は、中国古代において、国王から諸侯や臣下の功績に対して与えられた位階を「人爵」と称しました。
これに対して、道徳を実行することによって培われた品性や人格を、天から与えられた位として「天爵」と称しました。
そして「昔の人は天爵を修めることのみに努め、その結果として人爵を与えられたのであるが、今の人は人爵を得たいがために天爵を修めようとしている。
これは物事の本末を見失っているものである」と述べています」とあります。
天爵を修めるには、自我を没却して慈悲心を体現し、義務先行の自覚をもって伝統を尊重し、人心の開発救済に努力することだと説かれています。
自我とは、本書には「他人や社会の利害を顧みることなく、ひたすら自分の欲望を満足させようとする利己的な心づかいのこと」と説かれています。
この自我を没却し慈悲心を体現させるというのは、仏教にも通じるところであります。
記念館では、廣池先生は、雲照律師にも学ばれたということを知りました。
講演会に招かれたおかげで、またいろいろと学ばせてもらうことができました。
横田南嶺