あなたは仏、私も…
六道とは、『広辞苑』に、
「輪廻している衆生が生まれる六つの状態。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天。」と説かれています。
岩波書店の『仏教辞典』を調べてみると、
「六道」とは、
「衆生が自ら作った業によって生死を繰り返す六つの世界。
<六趣>ともいう。
地獄・餓鬼・畜生・修羅(阿修羅)・人・天の六つ。
とくに、地獄・餓鬼・畜生を<三悪道>(三悪趣)という。
また、この三悪道と対比して、修羅・人・天を<三善道>(三善趣)ともいう。」という解説があって、
「六道を輪廻することを<六道輪廻>という」と書かれています。
この六道に、声聞、縁覚、菩薩、仏の四つをくわえると、十界になります。
『仏教辞典』には、
「<六界>は原始経典ないし部派仏教でも説かれるが、後の四界を加えた<十界>説は大乗の法華経法師功徳品などにその萌芽が見える。
四界がつけ加わったのは声聞・縁覚の二乗(小乗)を批判し、それに対して菩薩・仏を上にすえたことを示す。
これを教学の上で体系化して説いたのは天台教学においてである。」
と説かれています。
「声聞」というのは、「教えを聴聞する者」という意味です。
お釈迦様の弟子の意で用いられていました。
仏教では後になると出家の修行僧だけを意味し、阿羅漢を目指したものです。
しかし、更に後には、大乗仏教からはかれらは小乗と呼ばれ、自己の悟りのみを得ることに専念し利他の行を欠いた出家修行僧とされたのであります。
「縁覚」は、師匠なくして、独自に悟りを開いた人という意味です。
堀澤祖門先生の著書『君は仏 私も仏』には、
「大乗仏教、とくに『法華経』では人間をはっきりと二種類に分けています。
一つは利己的な人間で、そのタイプを声聞と呼びます。
もう一つは利他的な人間で、これを菩薩と呼んでいます。
利己的な声聞を小乗の人として徹底批判し、利他的な菩薩を大乗の人として激賞しています。
つまり、高度な宗教においては利己的なエゴイストは最低な人間であり、他のために奉仕する利他的な菩薩が最高な人間なのです。
こうした人こそ、人間の究極位である仏の位にまで到達することができるというのです。」
と説かれています。
大事なことは、この十界というのは皆お互いに具えているということです。
これを「十界互具」と言います。
堀澤先生の『君は仏 私も仏』という本の題名は、十界互具という言葉を堀澤先生なりに解釈された言葉なのです。
堀澤先生は、この本の中で、
「天台大師は『法華経』で説く 「誰でも仏になれる」という教えに基づいて、十界互具と表現されました。
つまり、十界のそれぞれは他の九界を同時に見えているというのです。
地獄界も他の九界を具えているし、仏界もまた他の九界を具えているというのです。」
と明言されています。
更に、
「一人の人間が、上は仏界から下は地獄界までの生き方をことごとく具えている、というこの教えはまことに革命的です。
この教えは私たちに、今の私たちの生き方は貪欲の餓鬼の生き方ではないのか、争いの修羅の生き方ではないのかと自己批判を迫るとともに、また同時に菩薩も仏も自分の中にいるのだ、という大きな安らぎと高い目標を与えてくれるのです。」
とも説かれています。
「十界は、地獄界から仏界まで厳然として別れてはいるが、また相互に通じ合うものなのです。
なぜなら、仏の大慈悲は、地獄界を含む他の九界にもあまねく注がれているし、また、地獄の住人も因縁が熟すれば、上界の餓鬼界ないし仏界にも生まれ変わることができるわけで、仏界は他の九界を具有しているし、地獄界も他の九界を具有しています。
十界が互いに他の九界を具有し合っていることを「十界互具」というのです。
この考え方によれば、われわれの誰もが、下は地獄界から上は仏界までの十界を具有しているわけなのです。
思えば、われわれは、一日一日この十界を親しく右往左往しているようなものです。
腹を立てては修羅となり、貪欲の心を起こして餓鬼となり、愚痴にとらわれては畜生の境界にも陥るのです。
また、ときには、心が清澄となれば、慈しみの心を起こして菩薩や仏に近づくこともあります。」
ということなのです。
十界互具という考えは実に素晴らしいものです。
そこで堀澤先生は、常不軽菩薩のことを紹介されています。
「『法華経』の中に常不軽という名の菩薩が出てきます。
この菩薩は僧としての読経・坐禅・説法など一切しないで、毎朝早くから街頭に出て道行くすべての人々を礼拝し、合掌したという。
人々がいぶかってなぜかと問えば、「あなた方は修行の後に必ず仏となる方々です。私にはそれがよく分かりますので、尊さのあまり礼拝せずにはいられないのです」と言って、礼拝しつづけたといいます。」
という菩薩です。
堀澤先生は、この菩薩のことを説いた上で、
「人間は誰でも「十界」を具有しています。
それが、現代では、科学的方法論の大分解の嵐の中でバラバラにされてしまい、そのパーツ(部分)、パーツがモノとしてしか評価されなくなってしまいました。
いうならば、十界の底辺部ー地獄界や餓鬼界をさまよっているかのようです。
今こそ常不軽菩薩に学ぶべきではないでしょうか。」
と力説されています。
「やはり人間の心がけ次第です。
その人間の心のあり方が、餓鬼界(欲望) や修羅界 (怒り) にばかり傾いている現実が問題なのです。
今こそわれわれの中の仏界や菩薩界が大切なのです。
一人ひとりがこのことに気づき、自分の中の仏界や菩薩界にまず合掌し、礼拝しましょう。
そして、周辺のすべての人の中の仏界や菩薩界に向かって合掌し、礼拝しようではありませんか。
形の上に表して合掌したり礼拝したりすることができないならば、それと同じ深い心をもって相手の仏界や菩薩界に対すればよいのです。
深い心や祈りは強大な力をもっています。
この行為は、まず一番に自分の人生観を変えてくれます。
自分を大切にし、自分の中の一番大切なもの、尊厳なるものを自覚することで自信を取りもどすことができます。
毎日神や仏を拝むように、自分の中の尊厳なるものを拝んでもらいたいのです。
そして、家族の一人ひとりの仏界と菩薩界に心をこめて礼拝し、祈ることです。」
と説いて下さっています。
堀澤先生とのご縁を思い起こして、ご著書のひとつ『君は仏 私も仏』を紐解いて、堀澤先生の熱い思いと、深い慈悲の心に触れることができました。
横田南嶺