色と空 – 悠々と生きる –
二〇一七年に春秋社から出版されたものです。
この本の巻末には、先だって紹介した仙骨運動や、筋力体操についても図解入りで丁寧に説いて下さっています。
この本のタイトルの『枠を破る』の「枠」とは何かについて次のように書かれています。
まず生老病死という四つの苦しみについて説明しておいて、
「釈迦は青年期にこの四苦に制約された人生そのものを深く疑い悩んだと伝えられています。
生まれて来たことがすでに「苦」であり、年をとることが「老苦」であり、病気をすることが「病苦」であり、そしてついに死ぬという究極的な「死苦」を迎える。 それが人生であると。
生きること、つまり人生とは何と苦しみに満ちていることか。
そのようにして人生を生きることに、果たして価値があるのだろうか、と青年期の釈迦は悩んだのです。」
とお釈迦様の出家の原点について説かれています。
その後お釈迦様は、王子という位も妻も子も捨てて出家して、難行苦行をなされたのでした。
しかし、難行苦行では悟れないと気がついて、菩提樹の下で坐禅して、暁の明星を観て悟りを開かれました。
堀澤先生は、お釈迦様が何を悟ったかについて、
「青年期の釈迦はいわば四苦の枠、つまり「生の枠」、「老の枠」、 「病の枠」そして「死の枠」の中から出られないで、煩悶し苦しんでいたのです。
枠は「観念」と言ってもいいでしょう。
いわば、「生苦」「老苦」 「病苦」 「死苦」という観念の枠の中にいて、自由になれずにもがいていたのです。
だから苦しむのです。
実際の苦しみより、「観念の枠」が人を苦しめているのです。
釈迦は豁然と大悟した時、そのあらゆる枠を破ったのです。
四苦だけでなく、あらゆる「観念の枠」を破ったのです。
だから自由になって、苦しむことがなくなったのです。」
と説かれています。
「観念の枠」が人を苦しめるという表現は言い得て妙であります。
更に堀澤先生は、
「大悟した後も、釈迦は普通の人生を生きました。
つまり、老人となり、病気もし、最後には死んでいったのです。
普通の人と違うところは、「観念の苦しみ」から解放されて、悠々と老人となり、悠々と病気をし、悠々と死ぬことができたということです。」
と説いて下さっています。
悠々と老人となり、悠々と病気をして、悠々と死ぬということが、老いもなく、病もなく、死もないということになるのです。
堀澤先生は、悟りとは「枠を破った」状態だと仰せになっています。
「相対観という枠の中にいるから、自・他の観念が生まれるのです。
「相対観という観念の枠」を破ってしまえば、自他の対立は消えてしまいます。
そこに人類融和への道が、一元絶対の道が見えてくるでしょう。」
というのであります。
色と空についても分りやすく説いてくださっています。
まず「色」とは、仏教用語で「眼で見ることのできる一切の対象」をさしますと説いて下さっています。
般若心経では、色が空であるばかりでなく、受想行識も空であると説かれています。
受想行識は心のはたらきですので、「物・心のすべてが、「空」と対比されていることになります」と堀澤先生は説いています。
「色即是空」であり、「心即是空」であるということです。
私たちは、現象として現われている「色」に執著してしまっています。
自分というのも「色」でありますから、自分に対する執着を我執といいます。
自分の物であると執着してしまうと、奪い合ったりしてしまいます。
「つまり「執著」が一切の迷いの素であり、一切の争いの素であり、一切の苦しみの素なのです。」と堀澤先生はお示しであります。
「だから「執著」がなくなれば、すべてが解決されるのです」ということです。
そこで堀澤先生は「ところが、相対の世界観では本来的に「執著」を許容していますから、この世の争いは絶えないことになります。」と説いています。
更に「空」について、
「「色」なるものを容赦なく捨てていって、完全になくしてしまったとき、これを「空」といいます。
別の言葉でいえば、「カラッポ」のことです。
だから「空」とは「もの」ではなく「状態」をいう言葉だと分かります。」
と説いてくださっています。
堀澤先生は、「空感体験」というのを説かれています。
「空」を感じる体験です。
どういうものかというと、
「私たちの身体は、「色」で一杯つまっているわけです。
その「色」を、頭のてっぺんから足のつま先まで、徐々に排除、つまり「空じて」いくわけです。」
これをイメージでトレーニングしてゆくのです。
「空」のフィルターをかけるということを、私も実際に教わりました。
「頭の上から「空のフィルター」をかけて徐々に下へ下ろしていき、足のつま先までかけ切ります。
この「空のフィルター」が通ったところから、「色」が消えて 「空」になっていくと想像するのです。
イメージですから気楽にスーッと下ろしていけばいいのです。
心を込めて何べんも何べんも繰り返します。 これが修行なのです。
修行とは「一つのことをしっかりと繰り返す」ことでもあるのですね。」
と説かれています。
こうして繰り返していると、「しだいに「空」を感じることができるようになります。
初めは身体の重さとか硬さとかを感じていたのが、やがて体が軽くなり硬さがほぐれてくるのを感じるでしょう。
また、自分の身体が「あって、ない」ようにも感じることができるようになります。」
というようになってゆくのです。
こうして「色」が「空」を通ることによって、初めて相対世界で難題とされた執著が消えてゆくというのです。
「空」を徹底することによって執著の根拠が消えていくのです。
堀澤先生は「私たちは人間ですから、いくら「空」を通り抜けたからといっても、人間であることには変わりありません。
釈迦が悟った後も、人間として生きたことを思い浮かべればいいでしょう。」と説かれます。
色が実際に存在する「実有」だと思い込んでいたのが、仮に存在しているように見えているだけの「仮有」だと分ります。
そこで「「空」を通った人にとって、「色」は実有から仮有に変わりますが、さらに言えば、仮有とはむしろ消極的な言い方なのであって、もっと積極的に言うならば、仮有は妙有だということです。」
と堀澤先生は説かれています。
「釈迦は「空」を通って仮有になりましたが、その後の四十五年間にわたる伝道生活は、まさに「妙有」としての働きが全開したのだと言えるでしょう。」
ということなのです。
色にとらわれて枠にはまった状態から、枠を破って空を体験して、そのあとは、妙有として悠々と生きてゆくのです。
横田南嶺