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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.08.08
今日の言葉

言葉のむなしさ

言葉を使えることができるようになったのは、人類の発展には大きな力となりました。

このことは間違いないでしょう。

しかし、この言葉の為に、人は悩み苦しみ、またお互いを傷つけてしまうようになったのも事実でありましょう。

もっとも言葉によって、勇気づけられ、生きる力を得ることがあるのもまた事実です。

先日読んでいた本にこんな言葉がありました。

「我々大人が、「生命が大事だ」「心が大事だ」と何百回口にしたところで、「生命の大切さ」「心の大切さ」は生徒たちの心に伝わるものではない。

おそらくその言葉はそよ風のように彼らの頭の上を通り過ぎるだけではあるまいか。

なぜなら彼らは、「生命が大切だ」「いじめはいけない」という言葉は、サウンド (響き)としてはいやというほど耳にしている、つまり知識としてはすでに知っているからである。

では子供たちに「生命の大切さ」を実感させるにはどうすればよいのか。

「その言葉使わず」…。

私は、本当に真剣に「生命の大切さ」を子供たちに伝えようとするならば、「生命が大切だ」というその言葉を使わない方がよいと思う。

子供たちが、彼ら自身の行動と体験を通して「自ら気づく」「自然に伝わる」方法を大人は常に工夫することが必要である。

そのために大人には率先垂範という情熱と責任性が要求される。

その要求に応えられないとき、大人は一番安易な正しい「その言葉」を口にする。」

というものです。

知人から送っていただいた、『いのちって何 日本一小さな私立学校長のメッセージ』という相大二郎先生の本にあった言葉です。

お坊さんがいくら有り難い言葉でお説教しても、人の心に届かないことがあります。

大いに反省しなければなりません。

言葉の限界を知っていたから、禅宗では「不立文字」ということを言ったのだろうかと思います。

この本には渡り鳥の話が載っていました。

次の話です。引用させてもらいます。

「渡り鳥は不思議である。

十数羽のグループが一団となって「くの字」「への字」に隊列を組み、羽の上下運動も、隊形、速度、一糸乱れず飛び続ける。

そのリズムはオーケストラのヴァイオリンの弓のように、またグループダンスのように見事にそろっている。

しかしよく見ると、この集団にも仲間から離れて飛んでいる一羽二羽の離れ者がいる。

他の鳥と同じように一所懸命羽を動かし必死に飛んでいるのに、なかなか仲間に入れない。

私はふと、中学生のA君や小学生のK子を思い浮かべていた。

昼休み、校庭にたわむれる子供たちの仲間に入れずに、松の木の下にポツンと一人の生徒が佇んでいる。

遠足の朝、手をつないで出発する子供たちの列に入れずに、一人離れている子を見ることがある…。

生徒集団とユリカモメをダブらせて眺めているうちに、渡り鳥集団にある変化が起こった。

「くの字」「への字」の隊列が崩れて団子状態となり、遅れている一羽を巻き込んだ。

そしてその団子状態のまましばらく飛び続けたあと、今度は一羽もはずれることなく、新たな「くの字」「への字」に隊列を立て直して飛び続けたのである。

私は目を見張って眺めていた。

鳥たちはこの行動を誰に教わったのか….。

はずれた仲間を巻き込むという自然の習性なのか….。

自然の習性だとすれば、鳥は人間より優れた習性を持っているのか…。

私は橋の上に佇み、山影に消えてゆく鳥たちを見送りながら、A君やK子もこうあればいいと思いつつ眺めていた。」

と書かれています。

相先生は、一燈園の方であります。

著者略歴には、「幼少から「一燈園」創始者西田天香師に導かれ、「個人の成就」と「世界真平和」について、その「祈り」と「実践道」を教導される」と書かれています。

この本が発行された二〇〇八年三月の時点で、一燈園・燈影学園学園長でいらっしゃる方であります。

果たして鳥は言葉をもっているのか、どのようにして意思疎通をしているのか、知るよしもありませんが、人間のように複雑な言葉を持たないのに、実に人間以上の素晴らしいはたらきをしているように見えるのであります。

言葉の限界を思うのであります。

一燈園を創始した西田天香先生というのは、明治五年滋賀県長浜のお生まれであります。

二十歳で、明治政府の北海道開拓という大政策のために、北海道に渡り新しい会社を設立します。

しかしこの事業は困難を極め、株式会社を設立するも不振や出資者と労働者との板挟みになり辞任します。

失意の中、左足中指を切り落として帰郷したのでした。

今後一切「金」と「争」の生活とは縁を切るという覚悟の血書を認めたのでした。

『いのちって何』には次のように書かれています。

「彼は死を決意して、故郷の長浜愛染堂の縁側に、三日三晩飲まず食わずで坐り続けた。

やがて四日目の朝、意識朦朧の中に赤子の泣き声を耳にする。

あの赤子も自分と同じく腹を減らして泣いているのであろう….。

と、そのとき突然赤子が泣きやんだ…。

おそらく母親が飛んでいって乳房を与えたのではなかろうか….。

その乳房に吸いついて乳を飲んでいる赤子と、その顔を幸せそうに見つめる母親の顔が天香の脳裏に映った。

「夜は白々と明けた。このときフト耳にしたのは赤子の泣き声であった。

ハッと思った。私も赤子のように泣いたなら…と。

あの子は今泣いている、あの子の母は仕事に追われ膨らした乳房を抱えてうろうろしているに違いない。

もしもあの子が泣かずに飢えて死んだなら母は乳をもてあましてどんなに嘆くであろう!

泣いてくれればこそである。

乳を飲むのは生存競争ではない、闘いではない、他をしのぐのではない、飲むことによって母も子も喜びあうのである。

子の生まれる前に乳はない、子が生まれて初めて乳が出る。

母も子もその乳のために少しの努力もしない、自然に恵まれて二人とも助かる。 人類の食物も畢竟かくあるべきだ。

不自然なことをするために受くべき恵みを失ったのである。

この赤子のように私のためにもどこかで飯を準備し、私を待っていてくれるかもしれぬ。

もちろん無理に生きようとするのではない、許されるならば、である。

それなら如何にして泣いたらよいか、またここにじっとしていて良いのか?」「懺悔の生活』より)

血書まで認め、乞食のような生活をしながら探し求めた、「金」と「争い」のない生き方は、我が身に最も身近な母と赤子の間に存在したのであった。」

というのであります。

これまた言葉を越えた世界なのであります。

 
横田南嶺

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