観世音とは
まずはじめの一句「観世音」について、伊豆山先生は、原田祖岳老師の言葉を示されています。
「原田老師曰く、「観世音の一句、実に全宇宙の声でありませんか。
全自己の叫びではありませんか。
我他彼此を一切超越した観世音丸出しではありませんか」と。」
いう言葉です。
これについて、伊豆山先生は、
「これは幼児が母にすがりついて必死に「お母さん」と叫ぶが如き我を忘れた叫びである。
原始の観音信仰はともあれ、少くとも禅的見地から見た場合は、自己の本体の投影としての観音に相まみえんとすること、畢竟見性をこころざすことである。」
と説かれています。
「自己の本体の投影としての観音」と明確にしめされているのです。
そのことに目覚めることが、禅で説く「見性」にほかなりません。
それから間宮英宗老師の言葉も示されています。
「間宮老師曰く、「浅草の観音様にお参りに行くのも、観音の尊像を拝むのも、帰するところは、見れば我身にある観世音菩薩にお目にかからねばならぬからであります」と」という言葉です。
この言葉は、私が春秋社から出した『祈りの延命十句観音経』にも引用させてもらっています。
私の『祈りの延命十句観音経』には、「観世音」について、次のように書いています。
「まずこの観音さまとは、正しくは観世音菩薩、世音を観ると書きます。
世音とは世の中の音声です。
世間の人々の声を観る、観るというのはよく見る、心でよく聞くことを表します。
「観音経」には、もし世間の人が様々な苦悩を受けた時、観音さまのお名前をお唱えすれば、観音さまはその声を聞いて皆必ず救ってくださると説かれています。
人間には様々な苦悩がございます。
どんな方でも、何の苦悩も無い人はいないかと存じます。
それぞれ苦しみ悩みを抱えています。
どうしようもない苦しみ悩み悲しみを抱えて、どうか観音さまお救い下さいとお願いする気持ちになることがございます。
そんなときにその声をお聞き取り下さり、救いの手をたれてくださるのが観音さまです。
人々の苦悩を救ってあげたいという心、これこそが仏さまのお心です。
そして仏教でさらに大切なことは、この仏さまの心は何も特別な仏さま菩薩さま方だけがお持ちになるものではありません。
あらゆるいのちあるものみんな仏さまの心を持っているというのが、お釈迦さまのお悟りです。
私達の本心は誰しもみな仏さまの心です。
ただ自分勝手なわがままな欲望、妄想、思いこみによって、本来持って生まれた仏さまの心を見失っています。
「観世音」と第一に呼びかけますのは、観音さまに救いを求めると同時に、私達の本心である、仏さまの心を呼び戻すことでもあります。」
というところです。
このあとに、間宮老師の言葉を引用しているのです。
また伊豆山先生は、至道無難禅師がある老尼に与えた『般若心経』の註にある言葉、
「観自在菩薩見レハ我ニ有ホサツ也」という一言も記されています。
曹洞宗江戸期の巨匠天桂伝尊(一六四八一七三五)の『般若心経止啼銭』に曰く、
「観自在トハ異人ニアラズ、汝諸人是レナリ、何ヲカ観自在ト云フ、眼ヲ開ケバ森羅万象アリアリトアラワレ、耳ニ通ズルコトハ無量ノ音声間断ナシ、六根ミナ如是」という言葉も引用されています。
私たちが、目でいろんなものを見るはたらき、いろんな音を聞くはたらき、これらすべて観音様のはたらきだというのです。
楽々北隠老師に次の話が伝わっています。
禅文化研究所の『禅門逸話集成』第三巻にあります。
北隠老師が、兵庫県の正法寺に住していた時のことです。
引用しますと、
「正法寺から北方を望むと観音山という山がそびえていた。
山上には観世音菩薩が奉安されていて、春秋の彼岸の中日には善男善女が列をなして参詣するのだった。
北隠和尚の部屋からもその様子が正面に見られた。
明治二十八年の春彼岸の中日であった。
北隠は観音詣での列を見ながら、侍者の尼僧にいった。
「あれを見い、みなご苦労なことじゃ。
銘々にちゃんと立派な観音さまを持ちながら、わざわざあんな高い所へ登らんならんとは気の毒じゃのう」
「へい、隠居さん、銘々に観音さんがありますのか」
「あるとも。みなの胸の中に、立派な生きた観音さまがちゃんとござらっしゃるのじゃ」
若い尼僧には何とも分かりかねたのだった。」
というのであります。
白隠禅師がこの「延命十句観音経」を弘めようとされたのは、六十一歳の時からでした。
白隠禅師が六十一歳のときに、江戸の幕臣の井上平馬が白隠禅師に書簡を呈し、延命十句観音経のことを伝えて来ました。
井上平馬は旗本で、寛永寺の上野宮に仕えていました。
日頃から延命十句観音経を信じて、これを人々に広め施していました。
井上平馬は一日、絶死して地獄に落ちました。
すると閻魔大王が言いました、
「そなたは十句経を普及させているようだが、そなた一人の力では弘めることはできぬ。
日本は駿河に白隠という者がおるから、これに頼って広めれば、その功は倍になるだろう。
このことを知らせるために、そなたを地獄に呼んだのだ」と。
たちまち蘇生した井上平馬は、直に手紙でそのことを白隠禅師に知らせ、これよりもっぱら白隠禅師が延命十句観音経を弘めることになったという話です。
後に井上平馬は駿河にやって来て、白隠禅師に会ってこの次第を詳しく話しました。
白隠禅師は、延命十句観音経をひたすらお唱えして、自己本来の観音様に目覚めて欲しいと強く願っていたのでした。
横田南嶺