生死の一大事
これは、平成八年の新版を復刊したものです。
『佛心』は、昭和三十四年に発行されたもので、旧版には、新版で削除された章もございます。
そのひとつに「生死事大」という一章があります。
その一部を朗読してみましょう。
まず朝比奈老師が、
「生き死にのことが、人生にとって大問題であることは、どの宗教でもいっていることで、ことに佛教はこの問題解決が主なる目的とされるだけに、昔からやかましくいう。
生死事大、無常迅速とは、耳にタコができるほどきかされるところだ。
また事実そのとおり人命は露よりもろい。
死がひとたび到来したら、英雄も豪傑も、富豪も権力者も、すべてその権威を失い、ただ一片の物質と化し去るのだ。
その死の来かたも、もうお迎いがきてくれてもよいのにと、この世にあきがくるような緩慢にくる例は稀で、多くは人間の意表をついて来る。
この間の伊豆狩野川のはんらんなど、遭難した人の話によると、ものの二十分もたたない中に、村も家も水底に没していたと。
流れて来た死骸の中には、花嫁姿で角かくしをしたままの可憐な婦人もあったという。
こうした天災地変の時ばかりではない。
ついこの間の夕方、東京からの帰途、車中で私に声をかけた友人は、家へつくと発病、その翌日にはなくなった。
交通事故や、凶悪な者の手にかかったりした場合は、いっそう刹那の間に運命が決する。
禅宗の念誦文に、「その来ることや、電長空に激し、その去ることや、浪大海にとどまる」とあるが、全くそのとおりだ。
しかるに、こうした浮世に生きていながら、お互いは案外にのんきである。
これは生物が何十万年か生きてくる間に、考えても仕方がないとあきらめて、こうした現実に無関心な習性がついたものであろうが、考えて見るとおそろしく大胆なものだ。」
と書かれています。
人間にとって死はいつ訪れるかわかりません。
お釈迦様は、
「わき目をふらず 華をつみ集むる かかる人をば 死はともない去る まこと 睡りにおちたる 村をおし漂す 暴流(おおみず)のごとく」と法句経の四七番に詠っています。
また同じく法句経の一二八番に、
「虚空(そら)にあるも 海にあるも はた 山間(やまはざ)の窟(あな)に入るも およそ この世に 死の力の およびえぬところはあらず」
と誰しも死を逃れることはかなわぬことを説かれています。
海の近くは危ないと思って、山に引っ越すと、崖崩れが起きたりします。
山は危ないと思って、町に住むと交通事故に遭ったりしてしまうのです。
朝比奈老師は、
「しかし、人間がいかに養生して、かりに彭祖や東方朔(中国の上代の長寿をほしいままにした仙人)のような長寿をたもって見ても、結局は知れているし、無常の危険はいつもともなっているのであるから、やはりこの問題の根本的な解決は信心である。」と示されています。
そこから更に朝比奈老師は、仏心の世界を説かれています。
仏心の世界には、生死はないと説かれているのです。
仏心は大きな海なようなものであります。
私たちの存在は、その波打ち際に起きる小さな泡であります。
泡だけを見ていると、たしかにもろくはかなく浮かんでは消えてしまいます。
すこし長く泡が続いても、やがて消えるのです。
泡しか見ていないともろくはかないものですが、そのもととなる大海原を見ると、泡が浮かんだからといって海は増えもせず、消えたからといって減りもしないのです。
大海原には、浮かんでは消えるという一時の現象のみであって、そこに生死の沙汰はないということができます。
朝比奈老師は、「生死事大」の最後に、
「佛心の中には生死はない。
いつも生き通しである。
人間はその佛心の中に生まれ、佛心の中に生き、また息を引きとるのだ。
その一瞬一瞬が佛心の真只中であると信じきれれば、生は生であって生でなく、死は死であって死ではない。
生死の中に佛あれば生死なし、という古人の言葉とあべこべであるが、佛心の中の生死は生死ではない。
いつどこでどんな死に方をしても、死後のことなどおそれなくともよい。
年をとって老衰して自然に死ぬのは苦しくないようだが、病気や水難や火事などで死ぬのは、苦しいにきまっているが、それも一時だと思う。
それはそういう時でも、信心がきまっていて、あとは佛心一枚、涅槃の世界にはいれるのだ。
佛や祖師方の浄土に行けるのだと思えば、苦しい中にもゆとりがあろう。
これを信心のない人、ただあわてふためく人の心中と比べたら、天地の差がある。
信心の功徳は死ぬ時だけではない。
その落ちつきを得た喜びや楽しさは、すべてのことにゆとりをもってのぞめる。
日常身辺におこる事柄から、一生の生き方まで大きくちがってくる。
古えからのすぐれた方々の生涯を見ればわかる。
三十四十の若さで死んでも、七十八十まで生きた者よりも、はるかに充実した、生きがいのある生涯を送られている。
だから生死のおそろしいことを知ることは、そのおそろしい生死からまぬかれ、佛心の信心生活に達する第一歩で、人間に生まれた幸福を本当に知ることができる門出ともいうべきで、どう見ても人生の一大事である。」
と示してくださっています。
朝比奈老師の『佛心』は、この生死を越えた仏心の世界を余すところ無く説いてくださっています。
仏心を悟ることはできなくても、読んでいるだけでも心が落ち着き安らかになることができます。
横田南嶺