お盆を迎えるにあたって
旧版も手元にありますが、貴重な本なので、買っておいたのでした。
旧版は、昭和三十四年に発行されています。
それが平成八年一九九六年に新版が出されています。
この度の復刊はその新版を再発行したものです。
平成八年の新版の時に、旧版から削除されたものもあります。
前管長の足立大進老師が、整理されて出されたのでした。
旧版を読むと、削除されたものも読むことができるのです。
削除された章の中に、「盆にちなみて」というのがあります。
少し長くなりますが、朗読してみましょう。
「お盆は、くわしくは盂蘭盆会といって、むかし、釈尊のお弟子の目連さまが、むさぼりの心の深かったむくいで、亡くなってから餓鬼道におちて苦しんでいられたお母さんを、施餓鬼の供養をして救ってあげたということからはじまり、インドから中国へ、中国からわが国へとつたわって来た佛教の行事であります。
ですからお盆にはどこのお寺でも法要を行い、信者の方々もお寺へ参ったり、お墓参りをしたりして、亡くなった方々の追善をするのであります。
正月とお盆とはわが国の最も大きな行事であって、正月が神の祭りであるに対し、お盆は佛の祭り、つまり先祖の祭りとされて、千数百年のながい間、ずっと行われてきたのであります。
目連さまのお母さんが餓鬼道へおちたからといって、私共の先祖や知人が、誰も彼も餓鬼道や地獄へおちるとはかぎりませんが、数多い人々の中には、そういう人もあるかも知れません。
もしそういう人があった場合を考えて、お盆にはお施餓鬼をするのであります。
また同じ親切をつくすなら、できるだけ行きとどかせたいと、お施餓鬼の時は先祖や有縁の佛のほか、かならず無縁の佛をも供養して、この世界に一人も苦しい人、悲しい人がないようにと願うのであります。
この深い思いやり、慈悲の心がお盆の肝心な精神であります。」
と説かれています。
大事な事は、お盆のお祀りをするのは、この「深い思いやり」「慈悲の心」の実践なのだというところです。
更に読みますと、
「お盆には地方によっては、お墓へ行ってすばらしいご馳走をして、食べたり飲んだりするところもあります。
たといそんなことはしないでも、お花を上げたり、灯籠をつけたり、水をそなえたり、香をあげたりして供養するのであります。
そればかりでなく、先祖の御魂が家へ帰っておいでになるものとして、お佛壇をも立派にかざり、種々なものを供えて御魂を祭ります。
私共が平生、人とのつきあいに、やさしい心をはこぶことは、うれしいことでありますが、お盆はそのやさしい心を亡くなられた人々に向けて、先祖や縁ある人々の御魂を迎えて、おもてなしするのであります。
生きている者同士でしたら、少しぐらい心持ちに不純なところがあってもとがめませんが、亡くなった方々に対してはそうはゆきません。
私共の心は丸見えですから、香華をそなえるにも、お霊供をあげるにも、心からしなくてはなりません。
真心をもって、できるだけ清浄に、できるだけ丁重にしなくてはなりません。
そのかわり、そうして佛さまの供養をする人は、生きている人々に親切をつくす以上に多い功徳をうけるのであります。
佛さま方の言葉は普通の人にはきかれませんが、こちらの真心がふかければふかいだけ、佛さま方はおよろこびになるのであります。
佛さま方には死に生きを超えた世界があるのです。
あさはかな心で片付けてはいけません。
論より証拠、昔から永く栄えている家は、かならず先祖祭りを大切にします。
先祖祭りをそまつにするような家に、繁昌のつづいたためしはありません。
こういうと、今日のようにセチがらく、生きている者が食べてゆくさえ困難なのに、どうして亡くなった人の祭りなんかしていられるか、などという人もありましょうが、私は生きている人はどうでもよい、佛祭りをせよとは申しません。
お盆に大切なのは、慈悲の心、やさしい思いやりの心です。」
と説かれています。
「これは私共の心の宝です。この心があれば自然に、生きている人には生きている人のように、亡くなった人には亡くなった人のように、親切にせずにいられないのです。
もののあるなしとは別です。
ですから佛祭りも身分に応じて、もし佛壇のない人ならミカン箱へまつっても、その心持ちだにまことであれば佛さま方はおよろこびになり、かならず感応道交があって、功徳をうけるのであります。」
とある通りです。
それから更に仏心の世界についても説かれています。
「佛さま方の世界は、なんのさわりもなく、どこまでも自由で、どこまでもひびき合う世界です。
人間の小さい智慧でははかれません。
それで佛智不思議と申します。
しかしその世界は私共の心をはなれたものではありません。
実は私共もその貴い世界のお仲間の一人なのです。
つまり私共はまだ修行の未熟な後輩であり、佛さま方はもう修行のできた先輩であります。
私共が佛祭りをするのに、無精をしたり、ふまじめであったりしますと、先輩は笑ったり、こまった奴だとおなげきになりましょう。
こんなふうにいうと、私共の心の世界の広さや自由さは、亡くなった人でなくてはもてず、分らないのかと思う人もありましょうが、そうではない。
私共の心が佛さまの心と同じであるからには、生きていても当然その徳はそなわっており、その広さは三千世界をつつみ、その自由さはいかなるものにもさまたげられないのでありますが、ただ修行や信心の力がたらないため、その徳を十分にうけることができないだけであります。
禅宗では「一寸坐われば一寸の佛」といいますように、修行をすればしただけ、信心がすすめばすすんだだけ、かならず心の徳はあらわれて、お互いの世界は広くなり自由になって、佛さまの世界に近くなるのであります。」
と丁寧に説いてくださっています。
心を込めてお盆をお迎えすることは、慈悲の心、やさしい思いやりの心の発露であります。
横田南嶺