もう一人のわたし
なるだけ、眠ってしまうことがないように話をしたりしますが、法話や説教というのは、安心してくつろいで、ぐっすり眠るようになると一人前だというのでした。
こういう言葉をいただいていると、聴いている方がお眠りになっていても、気になるどころか、自分もなかなかよくなったかなと思うことができるものです。
先日須磨寺の小池陽人さんから、いい話をいただきました。
小池さんのお寺のお檀家のある方で、不眠症に悩んでいる方がいらっしゃったそうです。
なかなか薬をいただいても眠れなかったそうです。
それが、寝る前に私のYouTubeラジオ管長日記を聴いているとぐっすり眠れるようになったというのであります。
これも有り難いことであります。
どんな些細なことでもお役に立つことがあれば、こんなにうれしいことはありません。
朝一番にこの管長日記を聴かれる方もいらっしゃれば、夜聴かれる方がいらっしゃれば、中にはお風呂で聴いていると方もいらっしゃいます。
それぞれ毎日の習慣にしていただいているようで、有り難いご縁であります。
さて、先日花園大学に講義に行った帰りに、久しぶりに寺町の古本屋に寄ってきました。
今書店は少なくなっていますが、私が修行時代の頃から変わらぬお店が残っていて、それだけでうれしくなります。
古本のなんとも言えない香りも、こころを落ち着けるものであります。
古本もこの頃は、目録などで注文できますので、わざわざ書店にゆかずともどんな本があるかは分るものです。
しかし、実際に書店に足を運ぶと、思いも掛けない本との出会いがあるものです。
今回も米沢英雄先生の小さな本を見つけて購入しました。
昭和三十八年の発行の96ページほどの小さな本でした。
米沢先生は、明治四二年福井県のお生まれです。
平成三年にお亡くなりになっています、
医師でありながら、浄土真宗の深い信心を得られた方でもいらっしゃいました。
著書も沢山ございます。
とても分りやすい言葉で、仏教の核心を説いてくださっている方であります。
今回出会った本は、小さな本ですが、題は『もう一人のあなたへ』というものです。
表紙をめくるとはしがきとして、
「あなたが、あなただと思っている、そのあなたの底に、もう一人の真実のあなたがいるのです。
ナムアミダブツは、その真実のあなたを呼び出すことばです。
少し面倒な話になりましょうが、しばらく、幸抱下さい。
もう一人のあなたのために。」
と書かれています。
はじめに、如来について書かれています。
「ところで、皆さんはいつか如来についてお聞になった事がありますか?
私も、 小学校から大学まで勉強して来ましたが(もっとも、最後は医科大学でしたから、やむを得ないにしましても)、この私も、如来については一度も教わったことがありません」と書かれています。
その通りでありましょう。
米沢先生は、法華経には、諸法実相ということが説かれていると示されます。
そして諸法実相とは、「ありのまま」「このまま」ということであると書かれています。
如来の「如」というのは、「ありのまま」「このまま」ということであります。
ところが、人間というのは、「ありのまま」を「ありのまま」に見ることができないと書かれています。
米沢先生は、「ありのまま」を「ありのまま」に受けとることが絶対に不可能な存在であると説かれています。
「つまり、問題の根本は、ただ一つの世界に生きていながら、百人おれば百人、千人おれば千人が、自分自分の都合から世界を見ているので、生きている世界は一つであるが、見られる世界は、百通り、千通りの世界が出来上るというわけであります。
百通り、千通りの世界が出来上るだけでは、まだ、『やむを得ん』ですみますが、百人、千人が、『自分の見ている世界だけが真実の世界だ』と主張し出しますと、世の中は騒然としてくるのであります。
小は家庭内のいざこざ、親子の世代のずれ、というような近頃やかましい問題から、国際紛争、原子戦争まで発展していくのであります。
こうなりますと、「ありのまま」の世界に生きつつも、人間はそれを「ありのまま」にみることの出来ない宿命をもった存在であるということは、大きな意味をもってくるではありませんか。
如来は、凡そ生きとし生けるものの、切実な問題となってくるではありませんか。」
と説かれています。
更に「人間は、本来は「如」の中にいるのだけれど、自分の思うようにしたいという根性をもったがために、「如」から離れて、すでに「如」でないために、自分で虚構した世界を真実だと思って、あたかも、影に等しいものに執着して、しっかりと摑(つか)んでいるのではないでしょうか。」と指摘されています。
『人間は、その本来の世界である如に対して、自分の都合で解釈を加えて、これを真実と主張せざるを得ないように宿命づけられている』というのです。
「ところが、人間は「如」から出て来てしまっているがために、「如」に気付かぬ。
「如」を忘れている。
そして、出て来た自分を真実なり、と執着しています。
これを迷いというのでありましょう。
しかし、また幸いに、人間はもと「如」から出て来たものでありますから、ことと次第によっては、本来の「如」へ帰ることの出来る可能性が残されているわけであります。
この可能性を〈如を悟ることの出来るもの、如を悟って仏となるもの〉という意味で、『仏性』と申します。
私たちの心の奥底に、この仏性が眠りつづけているのです。
この眠りつづけている仏性を目覚めしめることによって、私たちは、本来の「如」へ帰ることが出来るのであります。」
と米沢先生は説かれます。
この眠り続ける仏性を「もう一人のわたし」と呼んでいるのであり、それを呼び覚ますのが、米沢先生によればお念仏になるのであります。
坐ってもう一人のわたしに目覚めるのが坐禅ということになるのです。
小さな本との出会いもありがたいものです。
横田南嶺