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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.07.29
今日の言葉

迷いと悟り

先日は、サンガ新社の企画で、藤田一照さんと対談していました。

テーマは「悟後の修行~終わりなき修行の果てしなき済度~」というものであります。

このサンガ新社による一照さんとの対談は、これで三回目となります。

サンガ新社による依頼の概要には、

「この企画では、同時代の仏教、そして同時代の修行とは何かを入り口に、修行の道の現代的なありようを主題にお話をお願いしてまいりました。

そしてその中でお話しいただいたことは、通時代的な精神の探求の普遍性と坐禅の本質を基本・基盤に据えた上で、今日的な在り方を、自由に、無礙に、発想し実践されるお二人の今日的な在り方ではなかったかと思います。

第三回では、「悟後の修行」を主題に、己自身の修行者としての生き方とともに、衆生済度の生き方をお話しいただければとお願いする次第です。

それはまた、我々凡夫、衆生の範とすべき人間の在り方をお示しいただくことになると信ずる次第です。」

と書かれていました。

第一回の対談は「これからの修行 これからの仏教」と題して二〇二一年一〇月一六日に行われました。

この内容は『サンガジャパン+(プラス)』創刊号に掲載されています。

語られた話題としては「大疑団と発心」、「機縁、出会い、学び、師」について、「修行、生き方へ歩を進める」、「現代の修行者へ」というような内容について語ったのでした。

第二回の対談では「現代における坐禅の意義はどこにあるのか」と題して二〇二二年七月二日に行いました。

内容は、「坐禅の本質」、「伝統の継承と改革」、「十年、十年、十年ー修行が生き方となる」というものでした。

一照さんとは、よくお目にかかってすっかり親しくさせていただいていますので、とても話しやすいものであります。

第三回が「悟後の修行」という題なのでありました。

私は、この「悟後の修行」という言葉には、あまり関心を持ちませんでした。

悟った後という表現には、何か違和感を覚えるほどでありました。

一般には、迷いの世界と悟りの世界とがあって、修行によって迷いの世界から悟りの世界に到るように思われていることでしょう。

しかし、私の実感としては、あまりピンとこないのであります。

迷いと悟りというのは、こちら側と向こう側というよりも、一枚の紙の裏と表のように感じます。

もしも迷いということを言うならば、迷いのただ中の人生であります。

悟りということを言うならば、生まれる前から、生まれた後も死んだ後もずっと悟りであります。

永遠に迷いの中にありながら、道を求め続けていく営みが、その裏を返せば、悟りそのものでもあります。

そんな次第で、私ははじめに、悟後の修行と聞いて、はじめはお昼ご飯を食べたあとにどんなことをするのかという問題かと思いましたと申し上げたのでした。

そうしてはじめに仏教の基本である三法印について話しました。

三法印は、

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三つです。

諸行無常とは「つくられるものは移りゆく」ということです。

諸法無我とは「この世にあるものひとりあらず」ということです。

それから涅槃寂静とは「己れなき者にやすらいあり」ということです。

ことに「無我」ということが仏教の中核であります。

我見という誤った見解に私たちはとらわれています。

我見とは「自我の存在を是認する誤った見解(邪見)のこと」であり、「ときとして自我の所有、わがものに執着する邪見(我所見)を含めていうこともある」ものです。

「自我は永続し、決して変化しない、単一の実体で、個人の中にある主体として、自らを支配するもの(常・一・主・宰)であると、仏教では解釈し、ゴータマ‐ブッダをはじめ、小乗・大乗のすべての学派が実体としての自我の存在を否定している(無我)。」というのが岩波書店の『仏教辞典』の解説であります。

この我の否定が、仏教の修行においても要であります。

さて悟後の修行という言葉には、多少の違和感を覚えますが、これは白隠禅師もお使いになっているものであります。

白隠禅師は、よくご自身の書物の中で、春日の神様の話をなさっています。

明恵上人と解脱上人とが時々に春日神に参詣していました。

参詣すると、明恵上人に対して春日神は、内陣の扉を開けて顔を見せ親しく話しをなされました。

ところが解脱上人に対しては扉を開けるだけで顔を見せず、話もしなかったというのです。

それを訝しんだ解脱上人に対して春日神は、

「学業が優れているので後ろ姿を見せたが、菩提心が無い点は返す返すも残念だ」と告げたという話なのです。

そこで白隠禅師は、「大凡そ倶盧孫仏より以来の智者高僧、菩提心無なき者は、尽く魔道に堕す」と仰せになるのです。

どんな智者高僧であっても菩提心がないと魔道に落ちてしまうということなのです。
菩提心というと、岩波書店の『仏教辞典』には、

「<道心><道意><道念><覚意>ともいう。

<無上道心><無上道意>の訳語もある。

悟り(菩提)を求める心、悟りを得たいと願う心などの意味。

一般に阿耨多羅三藐三菩提心の略語というが、それに相当するサンスクリット語の単語はなく、「阿耨多羅三藐三菩提(完全な悟り)へ向けて心を発す」という形で用いられるのが普通。」

とまず説かれています。

文字通り菩提を求める心なのです。

更に「<菩提心>(ボーディチッタ)は大乗仏教特有の用語」となってゆきます。

「特に利他を強調した求道心をいう。

菩提心は大乗仏教の菩薩(ぼさつ)の唯一の心で、一切の誓願を達成させる威神力(いじんりき)を持つと考えられた。」

と説かれています。

利他を強調したというところが大切なのであります。

白隠禅師は、『壁生草』で、

「漸く四十二歳の時、不慮に此の大事に撞着して、豁然として掌上を見るが如し。

作麼生か是れ菩提心、法施利他の善業是れなり。」

と明言されています。

菩提心というのは、人々に法を施し他を利する善業なのであります。

白隠禅師は、われわれの迷いの根本を「子細に看来れば、畢竟、我見の一法に帰せり」と仰せになっています。

迷い苦しみの根本は我見だというのです。

そこでいくら修行をしても、それが自利という、自分の為だけのものであれば、それはまた迷いに他ならないのであります。

そこで白隠禅師は悟後の修行が必要になると説かれるのであります。

近いや遠い、親しい疎遠であるだのと隔てをせず、一切衆生を等しく救済することで、迷いの根源である自他の分別が次第に解消されていくというのです。

自分のためだけに修行していると、どうしても「自分さえ良
ければ」という我欲があり、その根底には「我見」が潜んでいます。

そこで人々の為に法を説いてゆくという利他行がどうしても大切になってきます。

かくして、悟りの前も後も、一貫しているのは「無我の徹底」なのです。

一照さんとの対談では、私は、そんなことを話をしたのでした。

 
横田南嶺

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