叱ることも愛語
私なども修行道場で暮らしていて、毎日二十代の青年達と一緒にいますので、この叱ることの難しさをつくづく思います。
今の世の中でもそうだろうと察します。
総じて叱られることに慣れていない者が増えているように感じます。
相手に奮起して欲しいと思って叱るのですが、却ってやる気をなくしてしまうことが多くございます。
松原泰道先生は、よく最高の愛語とは叱ることだ仰せになっていたことを思い出します。
松原先生にはじめてお目にかかったのは、昭和五十五年の三月でした。
お目にかかった時に、出版された本に『一期一会』というのがございます。
これは初めてお目にかかって、初めていただいた書籍だけに思い入れの深いものがあります。
この『一期一会』には。「叱るこころ」という一章があります。
その冒頭に松原先生は、
「家庭でも職場でも、どうしても叱らなければならない場合がある。
こんなとき、言葉はたとい荒くとも、内容はあたたかい呼びかけでないと、相手を納得させることは出来ない。
よい叱言こそ、最上の愛語であろう。」
と書かれているのであります。
更に松原先生は、
「評論家の故亀井勝一郎氏は、
「叱るということを徹底的に考えるなら、それは宗教的行為であることでなければならぬ」と前提してこう言う。
人を叱る資格は(自分には)無しと痛感したとき、そこから人間としての謙そんな気持ちが出てくるのではなかろうか。
無言の叱責というが、何もいわないけれど、何となく親しみと尊敬を感じさせるような人間が、時々いるものだ。(「現代親子論」 主婦の友社)
ところが、実際はなかなかそうはいかないところに悩みがある。
わたしなど、つい感情に走って叱りつけて、あとで後悔する。
「最良の叱り方は、いかに人を励ますか、ということだ」が、〝叱責の原理〟だとされる。
この原理が成り立つには、叱り手はつねに謙虚に学ぶ態度が必要だと思う。」
と書かれているのです。
叱ることは宗教的行為という亀井勝一郎先生の言葉は深いものがあります。
松原先生の「叱り手はつねに謙虚に学ぶ態度が必要だと思う」の一言もまた肝に銘ずべきであります。
そこから松原先生は、ご自身の体験談を書かれているのです。
「自分のことで恐縮だが、わたしの長女の美子が幼少のころ、わたしと一緒に食事をしていた。
わたしが手に持っていたコップを食卓に落したので、コップは割れて中の水が食卓から畳の上に流れ落ちる。
わたしは美子に早くぞうきんを持ってくるように命じたが、美子は動こうともしない。
わたしは思わず美子を大声で叱りつけた。
すると美子は、つぶやくように「わたしも早く大人になりたいわ。あやまらなくてもいいんだもの!」と、あどけない顔で言う。
わたしははっと気がついた。
「美っちゃん。ごめんね、ぞうきんを取ってちょうだいね」と頭をさげた。
すると美子は「はい」という返事とともに立ちあがってぞうきんを持って来てくれた。
わたしはこのとき、過ちをしたときは、こだわりを捨てて子にわびる親にならなければならぬ、と気がついた。」
と書かれています。
なんとも微笑ましい光景であります。
かの松原先生が、幼い娘に頭を下げておられる姿は、まさに神々しいとさえ思います。
そこで松原先生は、
「〝ごめんなさい”とすなおにあやまる子どもや部下がほしいなら、親も上役も失敗をしたときは、権威にかかずらうことなくすぐに子どもや部下に頭を下げることだ、と学ばせられた。」
と書かれいるのです。
そこで松原先生は「わたしは、〝子どもの恩〟をはじめて知った。
恩は、師や親からのように上から受けるだけではない。
自分より目下の者からもらい受ける恩の方が、むしろ多いかもしれない。
なぜなら、「恩」の字を分解してみると、この事実がすぐわかる。
因と心とが合わされて「恩」の字となる。
つまり、原因を知る心が恩の内容であろう。
自分を自分たらしめてくれる原因は、自分の目上だけでなく、目下の者から頂く恩に容易ならぬものがある。
自分以下の者からたまわる恩にめざめて、はじめて信頼の念が生れよう。
自分よりも弱き者にもわびることの出来る心を柔軟心とも直心ともいう。
このこころはわびる態度から創造される英知でもある。
この英知は、叱る者も叱られる者とともに深い人間性を育ててくれる。」
と説かれています。
こんな懐かしい書籍を紐解きながら、私もかつて松原先生からお叱りを受けた日のことを思い出しました。
私は大学在学中に、東京の白山にある龍雲院で出家してお坊さんにしていただきました。
その時のことです。出家をして僧になる決意をして、松原先生の所にご報告にでかけました。
そうしましたらいつもは温厚な松原先生が、大変な剣幕でお叱りになりました。
同じ道に進むことに決めて喜んでいただけるかと思いましたが、とても厳しいおことばでした。
今にして思いますと、当時松原先生は、南無の会の会長となり、仏教はお寺にこもってはいけないと原宿の喫茶店でお話しをする活動を始められた頃でした。
ですからなおのこと、私がこの仏教の世界に入ることには、反対されたのでした。
「いまからお坊さんの世界に入ってどうするのか、もっと他の道があるだろう」と厳しく言われました。
しかしながら私は既に出家する決意をしていましたので、龍雲院の小池心叟老師のもとで頭を剃っていただいて、大学卒業と同時に修行に出かけたのでした。
それから十数年修行致しました。
やはり何の世界でもそうだと思いますが、外から見るのと中に入ってみるのではちがうものです。
固い決心をして入門したつもりでも心揺らぐこともあるのです。
もしも出家の決意をして報告したとき松原先生が優しく褒めてくださっていたら、私は甘えて「こんなはずではありませんでした」と泣き言を言っていたかもしれません。
ところがさんざんお叱りいただいて、決別してきましたものですから、もしも「もう駄目です」などと言おうものなら、松原先生からは「それみたことか」と言われるに違いありません。
ですから、絶対に泣き言をいうものかと踏ん張ることができました。
そうして辛抱するうちに、僧堂の師家という役を任されるようになったのでした。
師家に就任したときに、一番喜んでいただいたのが、これがやはり松原先生だったのでした。
叱ることばも、本当にその人をおもうこころのこもった愛語であると教えていただきました。
愛語から懐かしいことを思い出していました。
横田南嶺