純禅
禅の祖師方の伝記を集めたものです。
九五二年に編まれたもので、二五七人の方が載せられています。
柳田聖山先生は、『純禅の時代 祖堂集ものがたり』で
「十世紀の中葉、福建省の南端に近い泉州で書かれて、ほとんど誰にも気付かれぬまま、南朝鮮の山奥の書庫に潜んでいた『祖堂集』が、漸く長い眠りより目醒めるのは、今世紀に入ってからであり、人々の前にその全貌をみせるのは、さらに第二次世界大戦後のことである。」
と書かれています。
古来よく参照されていたのが『景徳伝灯録』であり、また『五燈會元』という書物でありました。
先代の足立大進老師も常に『五燈會元』を参照されていたものです。
『景徳伝灯録』は、景徳元年(一〇〇四)に出来たもので、一七〇一名の祖師が載せられています。
そこから公案の数を千七百というようになったと言われています。
『五燈會元』は、宋の宝祐元年(一二五三)に刊行されています。
そうしてみると確かに九五二年に編まれた祖堂集は古いものであります。
そんな書物が最近になるまで知られていなかったというのは不思議なものです。
私なども、昭和五十九年に柳田聖山先生が『純禅の時代 祖堂集ものがたり』を刊行されて、初めて知ったものです。
柳田先生がこの本にはじめに、
「これは、芳醇な生一本の蔵出しの歌である。
ゼンもZENも、まだ姿をみせぬ、純乎として純なる、古典中国の中世のものがたりである。
時代は、九世紀。
舞台は、長江中流の南北にひろがる、起伏の多い緑の大地。
寺も宗派も、まだ存在しない。
公案と坐禅の分裂は、なかった。
人々はただ土を耕して喰い、道を求めて行脚し、問答した。
おもいおもいの禅を生きる、素人の仏が、到るところに隠れていた。
第三者の総括は、無用であり、その効用を説く暇もなかった。
肯心自ら許す、大らかな内側の納得が、すべてである。」
と書かれています。
難しい公案などもまだ無い頃の大らかな禅の世界であって、敢えて「純禅」と名付けたのでしょう。
私などもまだ学生でありましたので、こんな世界に大いに憧れたものであります。
洞山禅師の話が載せられています。
『純禅の時代 祖堂集ものがたり』から引用させてもらいます。
洞山があるときの上堂で、弟子たちに教えて言われた。
「今ごろの修行者たちが、道とぴったりすることのできぬのは、他の理由によるのではない、まったく自分の心をかまえて、道を学ぼうとするためである。
もし、道とぴったり一つになりたいと思うなら、死んだ人が一息で、もはや帰らぬようになることだ。いったい、何人がこのようでありうるだろう」
そのとき、軌弁上座というものが、すすみ出てたずねた。
「そうした本来の境地(一色)になりきるとき、さらにその先があるでしょうか」
先師(洞山のこと)、「無いな」
その僧は、先師にあいさつすると、すぐに僧堂にかえり、槌を打って仲間を集めた。
「お互い五百人ばかりの人間が、ここに集まっているのはすべて先に進む修行のためのはずだ。
それを老師は先が無いと言われた。
これは納得できぬことだ。
結局のところ、つじつまを合わせただけで終わってしまう。
少なくとも、わしはもはやこんなところで、一生を過ごすことはできぬ」
こうして、大衆はみな荷物をまとめた。
僧堂の主事が、先師に告げた。
「衆僧は老師の仏法をうけがわず、 みな出てゆきました」
「放っておけ、わしの仕事は今、やっと実行できたわけだ」
先師は、主事に僧堂の門をぴったりと封鎖させた。
主事が言いつけ通りに実行したのち、茶堂に来たとき、先師は私(主事)に言われた。
「あの一隊の僧たち、いったん出ては行ったが、 ひっかえして来るに違いないぞ」
果たして弟子たちはひきかえし、いっせいに泣いてわびた。
しかし、先師は僧堂の門を開かれぬ。
大衆は主事につげた。
「わたくしたちは、まったく凡人で、老師の主旨をあやまり解し、うけがいそこねました。
すべてあなたにおまかせします。わたくしたちに、老師の面前で陳謝させて下さい」
主事は、すぐに方丈に行ったが、老師はいまも門をとざし、壁に向かって眠っており、方丈の門を開かれぬ。
主事が幾度もしつこくお願いすると、老師ははじめて漸く門を開かれた。
主事が、事の次第をつぶさに申しひらくと、老師は僧堂に入ることを許されたので、大衆はいっせいに声をあげて泣きながら、僧堂に上って来て、先師に上堂をおねがいした。
そこで、先師が説法の座につかれる。
軌弁上座がすすみ出て礼拝し、起立して言った。
「どうか老師の罰棒を頂きたく存じます。
わたくしたちは、過去広大却以来、仏身血を出し、和合僧を破るなど、(五無間の業を犯したむくいで)、まさしく今日に至るまで、老師の尊い教えの意味をあやまり解していました。
もしこの身と心を改めぬなら、再びもとに帰ることは、とうてい難しゅうございます。
今日こそ、どうか老師のお慈悲を頂きたく存じます」
先師も、悲しみの声をあげて言われた。
「わたしは若いときから、まだ一度も手をあげて、他人を打ったことがない。
まして況んや、理由もなしに他人に罰棒を加えることが、どうしてできよう。
いったい、本来の境地には、本分と本分ならぬ道理があるのだ。
それで、君がわたしにたずねて、まさしく本来の境地そのものになったとき、いったいその先があるでしょうかと言ったとき、わたしは無いと答えただけのことだ。
そこに、どんな罪や過があろう」
と書かれています。
柳田先生は、「洞山僧堂のストライキ」と表現されています。
師のもとを去る気概も一途で尊いものでありましょうし、戻って泣いて詫びる純粋さも素晴らしいものです。
確かに純粋な修行者たちの思いが伝わってきます。
それに棒で打ったことがないと言った洞山禅師も尊く思うのであります。
横田南嶺