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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.07.09
今日の言葉

坐禅をするには

唐代の禅僧の語録を拝読していても、どのように坐禅するか、説かれているところはほとんどないのです。

臨済禅師の語録を見ても、坐禅しても余計なことだと説いてはいますが、坐禅について説かれてはいません。

臨済宗において坐禅の具体的な方法が示されたのは、宋代の長蘆宗賾禅師が編纂された『禅苑清規』(1103年刊)の巻八にある『坐禅儀』なのであります。

『坐禅儀』は嘉泰壬戌(1202)、『禅苑清規』の重刻に際して、その第八巻に収められたと言われています。

これに先立って、紹興二十七年(1157)に成った陳実の『大蔵一覧集』三に収めるものが、現存最古であり、これは栄西禅師の『興禅護国論』の底本となっています。

『興禅護国論』は、建久九年(1198)にできあがったものです。

『興禅護国論』には、

「もし行人有りて、この法を修行せんと欲するものは、応に学般若の菩薩なるべし。当に大悲心を起し、弘誓願を発し、三味を精修し、大菩薩の清浄の妙戒を具し、広く衆生を度して、一身のために独り解脱を求めざるべし。」と説かれています。

ただいま読まれている『坐禅儀』には、

「夫れ般若を学ぶ菩薩は、先ず当に大悲心を起こし、弘誓の願を発し、精く三昧を修し、誓って衆生を度し、一身のために独り解脱を求めざるべきのみ。」

とありますので、同じ内容なのであります。

短い文章ですが、「般若」「菩薩」「大悲心」「弘誓願」「三昧」「解脱」など、難しい言葉が入っています。

「般若」は「初期仏教以来、無常・苦・無我などの諸法の道理を見抜く智慧として、また三学の一つとして重視された」ものです。

大乗仏教では、菩薩の修行徳目である六波羅蜜の締め括りに般若波羅蜜が置かれています。

菩薩は「菩提薩埵」の略で、悟り(菩提)を求める衆生(薩埵)という意味であります。

「悟りを求める人」ということです。

「部派仏教においては、このような<菩薩行>を完成して成仏しうるのは釈尊のような極めて限られた人のみとされていて、一般の修行者が目指し得る現実的な目標は阿羅漢(あらかん)もしくは縁覚(えんがく)だとされていた」のでありますが、

「この菩薩行の可能性をすべての人に解放したのが大乗仏教であった」のであります。

引用は、岩波書店の『仏教辞典』からです。

「したがって、大乗仏教においては、最高の悟りを求める心(菩提心)をおこして、自らの修行の完成(自利)と一切衆生の救済(利他)のために六波羅蜜を行じて成仏を目指す人はすべて<菩薩>」なのだということになります。

「大悲」とは、「仏の、衆生に対するいつくしみ」です。

『大智度論』には、「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く」とう言葉があります。

「弘誓」とは「広大な誓願のこと」です。

「菩薩が悟りを求め衆生を救おうと誓うこと、またはその誓いのこと。その内容と決意が広大であることから<弘誓>という」のであります。

四弘誓願はその代表的なものです。

四弘誓願は、
衆生無辺誓願度
煩悩無尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成
の四句です。

まず、悩み苦しむ人は限り無いけれども、誓ってすくおうと願い、

次に煩悩は尽きることないけれども、誓って断ち切ってゆこう、

教えは無量であるが誓って学んでゆこう、

仏道はこの上ないものだけれども、誓って成し遂げてゆこう

という四つの願いです。

「三昧」は、サマーディの音写で、三摩地(さんまじ)とも書きます。

意訳すると「正受」で、「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさず乱さぬ状態、あるいはその状態にいたる修練。」を言います。

「解脱」は「原語は、束縛から解き放す意。仏教では煩悩から解放されて自由な心境となることをいう」のであります。

かくして、この坐禅儀の冒頭の言葉を訳すと、

「そもそも聖なる智慧を学ぼうとする修行者は、まずどうしても大慈悲の心を起こし、遠大な誓いをたてて、熱心に禅定を修め、迷いの衆生を救うことを誓うべきで、我が身のためにだけの悟りを求めてはならない」ということになります。

先日も鎌倉の海の近くを通ると、大勢の人が海で楽しんでいました。

中には単に楽しもうと思って泳ぐ人もいるでしょう。

息抜きをしようという人もいるでしょう。

しかし、ライフセーバーの方もいらっしゃいます。

その人たちは、自分が楽しむ為に泳ぐのではありません。

海で溺れている人を救うために、海にいるのです。

溺れている人を救うには、そうとうの力量と見識が必要です。

それと同じように、坐禅を行うのは、自分一人安らかになろうというのではないと説かれているのです。

苦しんでいる人を救ってあげたいと願って、そのために自己を調えて坐禅修行をするのです。

自分だけ楽になればいい、救われればいい、楽しめばいいというのなら、こんな結構なことはありません。

溺れる人を救おうとするには、相当の力と経験が必要でしょう。

そうでないと、救おうといいながら一緒に溺れてしまうことになりかねません。

この自分を含めて一切の人を救うんだという強い願いをもって坐禅するのであります。

そうすると、自分自身の小さな悩みなど気にならなくなるもので、悟りにも早く到達するのです。

 
横田南嶺

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