禅とは?
いつもの『広辞苑』で調べると、
「① 天子が位をゆずること。譲位。
②〔仏〕(梵語dhyānaの音写。禅那とも)心を安定・統一させる修行法。禅定。六波羅蜜の第五。
③禅宗の略。」
という意味が書かれています。
よく使う「禅」というのは、三番目の「禅宗」のことでしょう。
禅宗というのを調べてみると、
「仏教の一派。その教旨は、仏教の真髄は坐禅によって直接に体得されるとし、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を主張する。」
と解説されています。
岩波書店の『仏教辞典』を調べてみると、
「「<禅>は、精神の安定と統一を意味するサンスクリット語dhyānaの俗語形、jhānaの音写語、<禅那(ぜんな)>の省略形であるといわれているが、この言葉は、<定>とも意訳されるため、両者を合して<禅定(ぜんじょう)>という言葉もしばしば用いられている。]
と書かれています。
禅という漢字には、もともとは
「天子が天をまつる儀式。」や「ゆずり。壇上で天をまつる天子の特権。それを受けるのを「受禅=禅を受く(天子の特権を受けること)」といい、略して禅という。」
という意味や「ゆずる。天子が天子の特権をゆずる。」という意味であったのでした。
それがインドで精神の統一を意味する言葉の音を当てたのが「禅」なのでした。
それはもともと、
「インド古来の伝統的修行法であるヨーガが仏教に取り入れられたものであり、仏教においても原始仏教以来、極めて重要な位置づけが与えられているが、特に中国においては、禅宗の成立によって、インドとは全く異なる、新たな<禅>概念が形成された」というものなのであります。
更に禅宗においては、
「インド以来、禅定は精神統一という一つの修行法を指すに過ぎなかったのであるが、禅宗では、それに先立つ生活規範や、それによって得られる悟りも、それと一体のものと考えられるようになったのである。」
というように変化していったのです。
「このため、禅宗では、<禅定>という言葉がほとんど用いられなくなり、単に<禅>とのみ呼ばれるようになっていった。
こうした変化は、人々の関心の中心が、禅定の持つ神秘体験や超能力から、悟りをいかに現実に生かしてゆくかという点に向けられるようになったことを示すものといえる。」
この岩波の『仏教辞典』にある「悟りをいかに現実に生かしてゆくか」というところが禅の特色でもあります。
今日本ではいろんなところに「禅」という文字が使われています。
ローマ字で書く「ZEN」もまたよく眼にします。
ホテルにも「ZEN」というのがありました。
サウナにも使われていたりします。
古くは剣禅一如とか、茶禅一如と言われていましたが、剣道や茶道のみならずいろんなところに「禅」が使われています。
今私たちが「禅」というと、枯山水の庭園を思い浮かべたりします。
京都の禅寺の庭などに外国の方が見入っている姿などは、なにか禅を感じているのでしょう。
余計なものをそぎ落とした簡素な庭には禅を感じるのかも知れません。
庭園は、優れた禅文化の現われでありますが、もともと禅は中国から伝わったものでありますけれども、中国には無かったものです。
日本で独自に発展したのが禅の庭でしょう。
茶道なんかもそうです。
質素簡素な茶室で、一椀のお茶を静かに味わう、これも禅を感じるものでしょう。
これも同じく、優れた日本の禅文化でありますが、もともと中国にあったものではありません。
或いは、坐禅している姿を思い浮かべたりしますが、坐禅は確かに禅の修行で行いますものの、もともとインドにあった修行方法ですし、禅宗だけが行うものでもありません。
他の宗派でも行っているものです。
或いは禅というと、坐禅している人を警策でパシッと叩く姿を思い浮かべるかもしれません。
これも今や禅の定番となっていますが、そんなに古くからあるものではないのです。
警策は日本には江戸時代に入ってきたと言われています。
中国においてもだいぶ後になって行われたらしいのです。
禅宗というのは、「教祖と聖典のない宗教だ」という小川隆先生の言葉を紹介したことがありますが、教祖も聖典もないので、これが禅だと定義するのは難しいのです。
教祖や聖典などという聖なるものを否定するのが禅の特徴だとも言えます。
臨済禅師が「一切の仏典はすべて不浄を拭う反古紙だ。
仏とはわれわれと同じ空蝉であり、祖師とは年老いた僧侶にすぎない。」と述べている通りであります。
聖なるものを否定してどうなるかというと、それぞれ一人ひとりが聖なるものだと気がつくのであります。
私もあなたも、庭に咲く花も鳴く鳥もみな聖なるものの現れだと見えるのであります。
先日京都SKYシニア大学というところの公開講座を頼まれて話をしてきました。
いただいた題が「禅のこころ」でありましたので、そんなことを話しながら、私が初めて坐禅した経緯などに触れました。
初めて禅寺で坐禅して禅の老師と言われる方に接した感動を話しました。
目黒絶海老師でありました。
老師は、お話なさる前に、「今日ここにお集まりの皆さんはみんな仏様です」と合掌され拝まれたのでした。
聖なるものを否定して、一切が聖なるものとして拝まれるようになってゆくのです。
その姿にこそ禅のこころが現れているのですが、はじめは分りませんでした。
長年坐禅してきてようやく、その拝むこころに触れることが出来るようになってきました。
シニア大学というので、ご年配の方が多かったのですが、六百名ほどの皆さんが熱心に聞いて下さいました。
話の最後には、九十分の拙い話を聞いてくださった皆さんは仏様ですと手を合わせて終わったのでした。
横田南嶺