道の大家は求道の大家
甲野先生には初めてお目にかかりました。
藤田一照さんのご紹介であります。
この方に接して感じたのは、「求道者」であるということです。
その風貌、たたずまいから、謙虚に道を求め続けていらっしゃる方だと分りました。
語る言葉も重いものがあります。
お話を聞いていても、最近の何月何日にようやく気がついたという話が多いのです。
今も道を求め続けていらっしゃって、そのようやく気がついたことを私たちに教えて下さるのでありました。
実に感動のひとときなのでありました。
甲野先生がどんな方かというと、頂戴したご著書『古武術に学ぶ 子どものこころとからだの育てかた』という本には、
「1949年東京生まれ。武術研究者
1978年に「松聲館道場」を設立。
以来、独自に剣術、体術、杖術などの研究に入る。
2000年頃からその技と術理がスポーツや楽器演奏、介護、ロボット工学や教育などの分野からも関心を持たれている。
著書に『表の体育・裏の体育』(壮神社、PHP文庫)、『剣の精神誌 無住心剣術の系譜と思想』(新曜社、ちくま学芸文庫)、
『古の武術から学ぶ 老境との向き合い』(山と溪谷社)、『古武術に学ぶ体の使い方。 (NHK趣味どきっ!)」(林久仁則氏との共著、NHK出版)、
『巧拙無二 近代職人の道徳と美意識』(土田昇氏との共著、 剣筆舎)、『上達論基本を基本から検討する」 (方条遼雨氏との共著、PHP研究所)、
『自分の頭と身体で考える』(養老孟司氏との共著、PHP研究所)、 『古武術に学ぶ身体操法』 (解説 森田真生氏、岩波現代文庫) など多数。」
と紹介されています。
はじめに控え室でご挨拶した時から、武術談義が始まりました。
長年探求してきてようやく気がついたということなのです。
甲野先生は、その時に『老子』の一節を教えてくださいました。
講談社学術文庫の『老子 全訳註』にある池田知久先生の現代語訳を参照させてもらいます。
「およそ国家の統治者というものは、以下の四つのタイプに分けることができよう。
最善の統治者は、下位の人民にただその存在が知られているだけで、君臨するけれども統治しない君主である。
次善の統治者は、人民から親しまれ誉められる君主である。
その次の統治者は、人民から畏れられる君主である。
最悪の統治者は、人民から侮られる君主である。」
という一節であります。
「大上は下之有るを知る」というのです。
ただ存在が知られているだけで、なにも統治していないというのが理想の君主だということなのです。
そこから剣の用いた稽古になるのです。
剣道では竹刀を左手で握り、右手は添えるだけだと教わります。
私も子ども頃に習っていたので、それはよく分ります。
ところが甲野先生が気がついたというのは、左手はなにもしないというのです。
それでつばぜり合いを行うのですが、なかなか普通のつばぜり合いというのは、お互いに押し合うと、双方負けるものではありません。
剣道の初心者でもかなり抵抗ができるものです。
ところが左手をなにもしないようにして、フッと右手で切るようにすると、なんの抵抗もできなくなってしまうのです。
まるで魔法にかかったような感じなのであります。
私などは多少剣道に心得がありますので、なんとか抵抗しようと思うのですが、そんな力がスッと外されて体勢が崩れてどうにもならなくなるのです。
なんとも不思議としか言いようがありません。
これがどういうことなのか、甲野先生も「自分でも分らないのだ」と仰っていました。
この分らないことにこそ真実があるのだと思いました。
二日間おそばでお話をうかがって、甲野先生は「分らない」ということを何度も仰るのです。
「なるほどと合点するようなのは真理ではない」という意味のことも仰せになっていました。
私たちは、すぐになるほどと合点するような説明を求めます。
しかし安易に理解できるものは、浅いものでしょう。
たとえば樹木がどうして高い木のてっぺんまで水があがるのかは分らないのだというのです。
浸透圧や毛管現象ではせいぜい1.5メートルか2メートルくらいしかあがらないそうなのです。
それが数メートルでも、なんのポンプもないのに水があがるのです。
不思議と言えば不思議なのです。
甲野先生の技は、そんな不思議の連続なのであります。
それを私たちが習おうとしてもとても習えるものでもありません。
ただただ感嘆するばかりなのです。
それでもそんな達人のそばにいると、何か体に変化を感じます。
質問を許されると、修行僧が毎日行う訓練について尋ねていましたが、甲野先生は、これという訓練法などはお答えになりませんでした。
いただいご著書には、
「基本を含め、大切なことは自分で見つけるべきなのです。
ですから、私の稽古会では、最初から「これが基本です」という教え方はまずやりません。
そもそも「教える人」と「教わる人」という一方的な関係ではなく、「学んでいる一人ひとりが自分流の開祖になることを目指すように」というのが、私が講座や講習会を行うときの基本方針です。」
と書かれている通りなのです。
意識的に反復練習をしても、かえって真実から遠ざかってしまうのだと思います。
そして、おそばで学んで分ったことの一つは、甲野先生ご自身が分らぬことに向かって探求し続けていることなのです。
その道の大家というのは、道を求める、求道の大家でもあったのでした。
横田南嶺