板木のひびき
かの森信三先生が、維新以後の老農の中で最も尊敬されていた方だというのです。
「老農」とは、「在来の農法を研究し、これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた、農業熱心家の人のこと」を言うそうです。
秋田県秋田市金足小泉の生まれです。
一八四五年(弘化二年)に生まれ、一九一五年(大正四年)にお亡くなりになっています。
明治時代の農村指導者で、生涯を貧農救済に捧げ、「老農」あるいは「農聖」と敬称されたのでした。
『板木のひびき』という小冊子をいただいたのですが、これは潟上市(かたがみし)教育委員会の発行のものです。
石川翁は、毎朝午前三時に板木を打って、村人達に、早起きをしてはたらくようにと教え続けたのでありました。
冊子の巻頭には「石川翁のねがい」として次のように書かれています。
よにはまだ生まれぬ人の耳にまで、ひびくはこれの掛板の音
という和歌があります。
「私が打つ板木の音は、まだ生まれていない人ーこれからの人の耳にまで、聞え、私が、何を訴えているか考えてくれるであろう。」というような意味の和歌です。
同じようなことですが、翁は
「私の打つ板木は、今朝、山田の人の中にも聞こえない人がいるかもしれないが、これから五百年後に生まれる人、五百里も遠く離れたところに住んでいる人にも聞こえることがあるでしょう。」
とも云っています。
「何か予言者めいた、言い方ですが、石川翁は、このような自分の心ーねがいをこめて、毎朝板木をうっていたのです。
その〝ねがい、とは
「人は早く起きて まじめに働くことが大切である。毎朝早起きをするように――」
「つらいこともあろう。ねむいときもあろう、 自分のわがままに、まけないで、やりとおすことが、大切である。がんばれよ。」
ということです。」
と書かれています。
板木というと、私ども禅の修行道場でも毎日使っているものです。
毎朝明るくなる頃に打つのですが、こんな気持ちで打っているかと考えると、反省させられます。
石川理紀之助は、奈良周喜治の三男として生まれました。
祖父がたいそう学問好きであったらしく、この祖父について文字を教わり書を読むことが好きでありました。
朝早くから読書したり勉強し、昼間は田畑ではたらき、夜は縄ない藁仕事をするという毎日でした。
十六歳の頃には、秋田の三歌人の一人と言われた蓮阿上人について和歌をひそかに学び始めたのでした。
ある日、蓮阿上人のところを訪ねての帰り道で、顔見知りに会いました。
理紀之助は見習奉公に出ていた身なので、主人に告げ口されてしまい、大切な写本や蔵書を焼き捨てられてしまいました。
当時「歌よみの家産(かまど)つぶし」と言われていたのでした。
理紀之助は、立派な歌人になると共に、農民としてもよくはたらいて立派な家産もちになってみせると心に誓ったのでした。
その通りで、理紀之助は、沢山のすぐれた和歌を残しておられ、老農としても活躍されたのでした。
二十一歳の時に石川家の養子となりました。
借金のあった石川家でしたが、勤勉と節約に努めて五カ年で借金を返済することができました。
明治四年廃藩置県となり、翌年に理紀之助は秋田県庁に採用されました。
農業の指導者として信用されていたのでした。
その後十年間県の農業発展の為にはたらいたのでした。
その間思うところがあって辞表を二十数回も出すのですが、受理されなかったといいます。
それほど高く評価されていたのです。
明治十五年理紀之助三十五歳でようやく辞職が認められました。
そんな頃理紀之助に悲劇が襲います。
長男の民之助が、家を出てしまいました。
理紀之助の著した『ゆめのあと』という書物には、
「わが子民之助は、田の仕事をするあい間に剣道を学び、柔道をも好み、武術(剣・弓・馬・槍など、戦うのに必要な技術)の勉強をしたいという思いが日ごとに募るものの、農家の跡取りだから、そんなことが許されるはずがないと絶えず悩んでいたが、勉強したいという気持ちはがまんしきれなかった。
去年(明治十九年)の十月十二日の明け方、民之助はそっと山田村(いまの秋田県潟上市昭和豊川山田)の家を出た。」
と書かれています。
四月になって理紀之助は民之助を探して旅にでました。
『ゆめのあと』を読むと、その苦難がよく分りますが、民之助は北海道に渡り、函館でお金を使い果たし、国後島の人夫募集に応じて、はたらいていたのでした。
しかしそこでチフスにかかって、闘病の末に死亡していたのでした。
世になしと我子のうへを聞くからに見るもかなしき國後の山
もうわが子はこの世にはいないという身の上を聞くと悲しくて、国後の山を見るのも悲しいという和歌です。
北の海千島の果てに尋ね来て我子の骨を見るぞ悲しき
はるばる北の海の果てに浮かぶ千島までたずねて来て、わが子の骨を見るのは実に悲しいという意味です。
我國の國の果てまで尋ねきて子におくれしぞ悔しかりける
この我が国日本の果てまでたずねてきたが息子に先立たれてしまいあまりにも残念でならないというのです。
明治二十二年、この『ゆめのあと』を著し、家督を老之助に譲り、貧農の生活を実践するために草木谷に入ったのでした。
間口二間に奥行き三間の粗末で狭い小屋に住んで、毎日十二時間はたらき、残りの十二時間を睡眠と食事、雑用の時間としました。
徹底した勤労と節約の暮らしをしたのでした。
理紀之助四五歳の時です。
明治二十七年東京で開かれた全国農事大会で表彰され、九州各県の巡回講演と指導を委嘱されました。
それ以来、各地から巡回指導を依頼されるようになりました。
休む間もなくはたらいて七十一歳の生涯を終えたのでした。
いたずらに寝ても老いゆく 年月を 世のためめぐる旅ぞ嬉しき
という和歌を残されています。
雪国秋田で午前三時に板木を打ち続けた石川理紀之助翁のことを学んだのでした。
板木の音は今も響いています。
横田南嶺