感動の講演会
NPO法人支援センターあんしんの二十一周年記念講演会でした。
この講演会に招かれるようになったきっかけは、そもそも、神渡良平先生が昨年上梓された『いのちを拝む』という本に、先生の御依頼で、巻頭言を書かせてもらったことでした。
その本の帯にも私の名前と写真も載せてもらっています。
実に恐縮したものでした。
この本のサブタイトルに、「雪国に障がい者支援の花が咲いた!」とあります。
この本の大半は、トイレットペーパーの製造で障がい者の自立を実現しているNPO法人支援センターあんしんの話が載せられているのです。
このあんしんの話はこの本の中核なのです。
神渡先生の「はじめに」で、
「障がい者のケアの問題は〝いのちを拝む”以外の何物でもありません。
いや、人間のいのちだけではなく、生きとし生けるものすべてのいのちを拝むことにほかなりません。
そしてそれは 私たちが先祖からずっと受け継いでいる〝日本文化〟のあり方でした。障がい者のケアは欧米の社会福祉のものまねではなく、〝いのちを拝む〟文化の発露なのです。」
と書かれています。
樋口さんご夫婦の三女が知的しょう害を負ってしまいました。
保育園に入る年齢になっても受け入れてくれるところが見つからなかったそうなのです。
ようやく入った保育園でも一月もしないうちに、「この子の面倒はみられません」と断られてしまったのでした。
母親の春代さんはこの先、三女はどうなるのだろうと不安がいっぱいになったのでした。
春代さんは、「私とこの子がいなければ、後のみんなが幸せになれる。二人で信濃川に飛び込みたい」とまで思い詰めたそうなのです。
そこから幾多の苦難を経て、樋口さんご夫婦はNPO法人を立ち上げたのでした。
あんしんの理念は「障がい者にすべての人が持つ通常の生活を送る権利を可能な限り保障することを基本理念にして障がい者のあらゆる行動を支援します。」
というものです。
トイレットペーパーの生産を事業の柱にして、今やなんと百数十名の職員がはたらいているのであります。
親のわが子を思いやる心が、奇跡のような事業を立ち上げたのでした。
講演の前に控え室で、その三女の明紀子さんにお目にかかることができました。
その表情が素晴らしいのです。
明るい笑顔でありました。
どれほどまわりの方から愛されているのか、その表情からよく分りました。
やはり素晴らしい活動をなさっていることが改めて分りました。
二十一周年の講演会の講師を務めるようになったのは、やはり神渡良平先生のご推薦であるときいていました。
講演会の講師紹介も神渡先生がなさることになっていたそうなのです。
ところが、無常というのか、この五月一日に神渡先生はお亡くなりになってしまいました。
神渡先生の遺影が飾られての講演会となったのでした。
講演は、まず自己紹介から始めました。
紀州に生まれた私がどうして坐禅を始めたのか、僧侶になったのかから話しました。
二歳の時に祖父が亡くなって、死んだ祖父がどこに行ったのか、小学生の頃に同級生が白血病で亡くなって、いったいどこに行ってしまったのか、坐禅をして解決できるのではないかと思ったのでした。
そうして坐禅を始めて、中学時代に円覚寺の朝比奈宗源老師の本にであい、更に松原泰道先生にであうことができたのでした。
松原先生からは、中学生のときに、
花が咲いている
精一杯咲いている
私たちも
精一杯生きよう
という言葉をいただきました。
そこから、南禅寺の柴山全慶老師の花語らずの詩を紹介しました。
花は黙って咲き
黙って散っていく
そうして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に
この世のすべてを托している
一輪の花の声であり
一枝の花の眞である
永遠にほろびぬ生命の歓びが
悔いなくそこに輝いている
という詩であります。
花はもろくはかなく散ってしまいますが、そこに永遠にほろびぬいのちが輝いているのであります。
永遠にほろびぬいのちとは何か、内山興正老師の生死の詩を紹介しました。
手桶に水を汲むことによって水が生じたのではない
天地一杯の水が手桶に汲み取られたのだ
手桶の水を大地に撒いてしまったからといって
水が無くなったのではない
天地一杯の水が天地一杯の中にばら撒かれたのだ
人は生まれる事によって生命を生じたのではない
天地一杯のいのちがこの私自身の中に汲み取られたのだ
人は死ぬことによっていのちが無くなるのではない
天地一杯のいのちが私という思い固めから
天地一杯の中にばら撒かれたのだ
お互いは天地一杯のいのちを生きているのです。
この二つの詩を紹介しておいて、このお二方に大きな影響を受けられた辻光文先生の話へとつなげました。
辻先生のことは、『いのちを拝む』の中でも取り上げられています。
辻先生の言葉も紹介しました。
晩年の言葉です。
生も死も別物ではなく一如、二つ別々に分けることができない不二の世界でした。自分と他人は分けることができない。
一つの〝いのち〟であるように、何と生と死も分けることができない〝一つつながり〟なのです。
生と死すら一つつながりで、表と裏の関係で、決して非情な断絶などではありません。
人間は死を誤解して忌み嫌っていますが、それは迷いに過ぎないんです。
自分がそういう永遠の世界に息づいていることに気づいたら、うれしくって、うれしくって、涙がこぼれます。
生も死もわけることができない一つつながりのいのちなのです。
お亡くなりになった神渡先生もその姿は見えませんが、この場にいらっしゃるのだと話をしました。
途中何度か神渡先生の笑顔が思い浮かんで絶句しそうになったのですが、なんとか最後まで話しました。
でも最後に神渡先生もこの場で聞いてくださっていたと言おうとしたところで、神渡先生の笑顔が思い浮かんで、ぐっとこみ上げてきてしまってしばし絶句してしまいました。
あんしんの皆さんにお目にかかることもできて実に感動の講演会でありました。
横田南嶺