腰が立つということ
腰が立つということはこういうことだったのか」という、
深い感動のうちに、坐っていました。
これが先日西園美彌先生の足指のワークを終えた後に、しばし坐った感想なのです。
毎回西園先生の講座を受けると、毎回、最高の講座だと感動します。
そして毎回、受けるたびごとに、自分の体がこうも変化するのかと感動するのであります。
坐禅というと、手を組み足を組んでじっと坐るという実に単純なものです。
西園先生のご専門のバレエのような複雑なところはありません。
しかし、これが単純なるが故に実に奥深いのであります。
体の精妙なバランスが保たれて絶妙な姿勢になると、呼吸などは調えようとしなくても調ってくるのであります。
前回西園先生に教わった肩を調える運動は、とてもよくて、自分でもよく実践しています。
今回は、肩や上半身を調える動きはなかったのですが、足を調えるだけで、気がつくと肩も力が抜けて下がっていて、胸郭も無理なく開いていて、実に自然に調った呼吸になっていたのでした。
自分の横隔膜がどのように動いているのか、その動きまで克明に分るような感覚でありました。
思えば十歳の頃から毎日坐禅してきているのですが、まだ新たな発見があり新たな喜びがあるものです。
そしてこの坐禅の喜びを伝えたいというのが、この頃の私の願いでもあります。
そういう深い感動を得るには、西園先生の渾身の講座が三時間行われたおかげなのであります。
その三時間もあっという間の三時間なのであります。
専ら足の指、足の裏、拇指球、小指球、かかとの三点を意識することなのですが、延々とこの足の裏の感覚に意識を向けてゆくのです。
今回は、内観ということにも時間をかけてくださいました。
この内観というのは、白隠禅師の内観とも趣を異にしていて、また先日紹介した心理療法の内観とも異なります。
文字通り体の内面を観察するのであります。
立ったままで、自分の親指の付け根である拇指球を点であると捉えているか、面であると捉えているか、小指の付け根である小指球が点であるか、面であるか自分で観察します。
またかかとは点であるか面であるかと観察します。
感覚が鋭くなってくると、漠然とした面で押しているのではなく、くっきりと点で床を押していると感じられるのようになるのです。
面といっても漠然とした輪郭だったのが、だんだん小さくなってくるのです。
面といってもどれくらいの大きさの面なのかをみずから観察してゆきます。
体の重心がかかとの方にあるのか、土踏まずにあるのか、右に重心があるのか、左にあるのかと観察します。
いろいろと観察してゆくことによって、足の裏に意識が行き届いていって、自然に姿勢が矯正されてきます。
それから二人ペアになって、拇指球、小指球で床を押すというワークをかなりの回数繰り返しました。
こんなに繰り返すのかと思っていましたが、繰り返すことによってだんだん体が変化してゆくのだそうです。
足で床を押すからこそ、腰が立つのであります。
今回は、深層外旋六筋というのを教わりました。
股関節の安定に関するインナーマッスルなのであります。
こんな筋肉を動かすような動きをしたことがありませんでした。
しかし、これによって随分腰が立つように感じるのであります。
今まで詰まっていた股関節が広がって余裕が生まれて、自然と腰が立って背筋がまっすぐに伸びるのです。
修行僧達も楽しそうに動きながら、だんだんと体がほぐされて姿勢がよくなってゆくのであります。
股関節が開いてゆくので、体のバネも活性化するようで、ぴょんぴょん跳びはねてみるとまるでトランポリンに乗っているかのように跳ねるのであります。
若い修行僧は、楽しそうに飛び跳ねていました。
昨年に修行道場に来て、体が硬くて、背中が曲がったままの者も随分と姿勢がよくなり、股関節も柔らかく変化してきていました。
そんな変化を感じるのは自分自身、喜びであり、感動するのです。
西園先生の講座の前日には、円覚寺派の住職研修会を行っていました。
今回の研修は主に宗教法人としての公益性についての勉強でありました。
実際にお寺でどういう問題が起きているのか、専門に担当している和尚さんや、弁護士でもある和尚さんに具体例を挙げて講義をしてもらったのでした。
私ははじまりに四十分ほど話をしたのですが、いつものように只今の寺院を取り巻く諸問題について取り上げました。
少子高齢化に過疎化、後継者不足に檀家が減少し、寺離れが進みます。
更に拍車をかけるように宗教への不信がつのり、葬儀や法要など儀式の簡略化はますます進んでいるのです。
暗い表情になってしまうのも無理からぬことです。
しかし、お寺に居る者が暗い表情で、暗いことばかり考えていては、益々悪くなってゆくことでしょう。
まずは喜ぶことですと伝えました。
皆仏弟子となったのです。
仏弟子、お釈迦様の弟子となって仏道を実践できる喜びが大事なのです。
もっと具体的には毎日の坐禅をどれだけ喜びと感動で実践しているかが大事なのであります。
こうして外部の先生に教わるとまた新たな世界が開かれてゆきます。
まだまだ自分の体には未知なるところがあると分ります。
道を求めることは益々楽しいと実感するのであります。
横田南嶺