苦痛でない坐禅
朝早くに鎌倉を出て、ほぼ丸一日よくはたらいた日でありました。
花園禅塾というのは、妙心寺のすぐ隣りにあり、花園大学にも歩いてゆける距離であります。
主に花園大学に通う学生さんたちが、朝夕修行道場に準じた生活をしながら学業に励んでいるところです。
みなそれぞれ、大学を卒業したら、修行道場に入って雲水修行をする方がほとんどなのであります。
まだ学生さんなので、頭を剃ることまではしていません。
大学の一回生と二回生の学生さんたち二十数名が共同生活をしているのです。
若い学生さんたちに接することができるのは有り難いことです。
私も今も坐禅の探求を続けています。
生涯坐禅出来るようにいろいろと学び工夫しているところです。
とりわけ最近は、西園美彌先生に教わって足指の大切さを学びました。
はじめは、足の指が姿勢とどう関係あるのか不思議に思ったのですが、とても関係があるのです。
あるというよりもつながっているのです。
坐禅を長くしていて、膝を痛めることがよくございます。
私は幸いにも小学生の頃から坐禅に親しみ、修行時代に真向法を教わって、些か股関節を柔らかくして坐ってきましたので、膝に痛みなどを感じることはなかったのでした。
ところが、寄る年波というのか、数年前から少し膝に違和感を覚えるようになってきました。
自分では、年齢も考えると、こうして膝を痛めたりするのかなと思っていました。
思えば先代の管長も六十を超えられて膝の痛みを訴えられ、そのことが原因となって師家を辞任されたという経緯がありました。
よく膝にブロック注射をというのを打っていらっしゃったのを思い出します。
しかしながら、私は西園先生に足指のワークを教わって実践してからこの膝の違和感が解消してしまいました。
足の指や足の裏が体を支えているのです。
このバランスによって、膝に負担がかかったりしてしまうのです。
足の指でしっかり床を踏むことが如何に大切か身にしみています。
そこで塾生さんたちにもまず足の指から指導したのでした。
足の指と股関節もつながっているのです。
指導といっても、すべて西園先生に教わった受け売りに過ぎないのですが、よいことは少しでも教えてあげたいと願うのです。
指導しようと思って、まず塾生さんたちに坐禅の姿勢で坐ってもらいました。
股関節がとてもかたくで膝がかなりあがったままの方が何名か見受けられました。
股関節が開かないと、坐禅にはなりません。
股関節が開かないのに、むりに足を股の上にあげようとすると、膝や足首をひねってしまいますので、足首や膝を痛めることになってしまいます。
近くにいた数名の学生さんに、「坐禅は苦痛ですか」と聞くと、皆声をそろえて「苦痛です」と答えました。
その体の堅さを思うと、足を組んでじっとしているのは苦痛以外のなにものでもないと分ります。
そういうからだをまずほぐして、股関節を開くことできるようにしてから、足を組むことが大事だと私はこの頃思うようになっています。
なんとなれば古来「坐禅は安楽の法門なり」と言われているのです。
坐禅は苦痛に耐えることだとは説かれていないのです。
もっとも世の中を生きるにも、私たちの修行においても、全く苦痛がないかというと決してそうではありません。
苦しみに耐えるこということにも意味があります。
しかし無益な苦しみはしない方がよかろうと思うのであります。
それから更に最近ヨガの先生に教わった坐禅の為のヨガを実習してもらいました。
これは短時間で、姿勢を調え、股関節を開くようにできているものなのです。
それから更に最近ある先生から教わった股関節を開く方法も実習しました。
いろんな先生方に習い教わったことをできる限り伝えてあげようと思って講習してきました。
ほんの一時間ほどの実習だったのですが、はじまりの時に坐禅をしてもらった姿勢と、終わった時に坐ってもらったときの姿勢では大きく変化がありました。
膝がまったく下がらなかった方もかなり目に見えて下がるようになっていました。
本人も驚いているようでした。
そうなのです、体は変化するのです。
そして実習のあと、皆一応に口をそろえて「坐りやすくなった」と言ってくださいました。
この坐りやすさ、安定感、そこから自然と呼吸が調ってきます。
坐ることによって体が喜ぶのです。
いつまでも坐っていたいと思うようになるのです。
禅塾では一回の坐禅は二十五分ほどだということでしたが、二十五分でも苦痛の坐禅では長く感じると思います。
早く終わらないかなと思いがちです。
それが、ここちよく坐れると、一瞬のように感じます。
そしてもっと坐りたいと思うようになってきます。
そうして、自然と呼吸が調い、心が調ってきて深い精神の統一状態に入ることができるようになります。
そうなってくると、坐禅が自分の坐禅を導いてくれるようになるものです。
苦痛でない坐禅を体感してもらいたいと願って講習をさせてもらいました。
禅塾の学生さんたちは、指導が行き届いているので、挨拶も大きな声ではっきりしていて、動作もキビキビしていて接しているだけでこちらも心地よくなります。
姿勢や声や動きは、それだけで相手に伝わるものがあるのです。
只今禅塾で指導員を務めている方の一人は円覚寺の僧堂で修行された方でありますので、わたくしも親しみを感じています。
塾頭さんもとても熱心に指導してくれているようであります。
塾頭さんと控え室で話をしていて、塾頭になるときに、ご自身が修行した道場の老師からまず自分自身が坐禅を好きでないと、学生さんたちはよく見ているぞと言われたと仰っていました。
その通りなのです。
人に指導するというよりも、まず自らが楽しむことなのです。
その喜びが伝わってゆくのです。
坐禅の喜びを伝えたいと願っています。
横田南嶺