手に感謝
これは先月日本講演新聞の五月十五日号で、「両手を失って分ったこと」「自分の手に『ありがとう』」という題の記事を読んで思ったことなのでした。
その記事の冒頭には「皆さんは、自分の手にありがとう」と言ったことはありませか」と書かれていました。
その一文を読んで思いました。
たしかに自分は、両手を合わせて感謝をしましょうといつもお話していますが、この両手に感謝するということはしてこなかったことに気がつきました。
そこで両手の話をしようと思ったのでした。
坂村真民先生には、「両手の世界」という詩があります。
両手の世界
両手を合わせる
両手で握る
両手で支える
両手で受ける
両手の愛
両手の情
両手合わしたら
喧嘩もできまい
両手に持ったら
壊れもしまい
一切衆生を
両手に抱け
両手の世界というのは素晴らしいものです。
お茶をいただくにしても、両手で丁寧に湯飲みを持っていただくのと、片手で粗雑に扱うのとではずいぶん違うものです。
また合掌というのは素晴らしいものです。
しかし、手そのものが有り難いのであります。
『無門関』という禅の書物があって、その終わりに、「私の手は仏の手と比べてどうか」という問題があります。
仏さまの手と比べて同じように五本の指があります。
かの有名な鈴木大拙先生と岡村美穂子さんとの出会いの話を思い起こします。
岡村さんが十六歳で初めて大拙先生の講演を聴かれた時のことです。
まずその大拙先生のお姿が印象的であったといいます。
大拙先生は、当時八十一歳でありました。
大拙先生が焦げ茶色の風呂敷包みを脇に抱えて、サッサと演台に登られて、聴衆に気を取られる風でもなく、気負った風でもない、全く無駄のない動きに、岡村さんは心惹かれたのでした。
そこで岡村さんは夢中になって聞かれましたが、講義の内容は全く分からなかったそうなのです。
そこで岡村さんは、講義のあとに先生の控え室をたずねて、「先生何も分かりませんでした」と申し上げたらしいのです。
すると大拙先生は、穏やかに「じゃあ、明日お茶にいらっしゃい」と言ってくださったのでした。
大学の宿舎を訪ねた岡村さんは、「人生の意味がわからない」「大人なんてつまらない」「これ以上生きて何の意味があるのか」など、若者らしい様々な悩みを打ち明けられたそうです。
それを大拙先生は、ただじっと耳に手を当てて頷きながら聞いてくださったそうです。
岡村さんはその少女の訴えに只じっと耳を貸す先生のお姿に心打たれました。
一通り岡村さんが悩みを打ち明けられると、大拙先生は、言われました。
「美穂子さん、手を出してご覧」と。
岡村さんは言われた通り手のひらを上にして差し出しました。
すると大拙先生は、その手をさすって「よく見てご覧」と言いました。
岡村さんは何事かとおもってじっと自分の手を見ます。
大拙先生は更に「綺麗な手じゃないか、仏の手だぞ」と言われました。
岡村さんは、この自分の手のどこが仏の手なのか、なぜそんなことを言われたのか考え続けられました。
次の日も岡村さんは、大拙先生の部屋を訪ねて聞きました。
「これがどうして仏の手なのですか」と。
大拙先生は、手を動かしながら、「この手を動かしているのは誰か」と問われました。
自分の手でも、自分で動かしているでしょうか。
大拙先生は岡村さんに「では、美穂子さん、いまあなたはその手を、私の手だと言ったけれども、その手はあなたが作ったのですか」と聞かれました。
岡村さんはすぐ「そうではありません」と答えます。
大拙先生は更に「ではご両親が作ったのか」と聞きます。
それも違います。
更に「では親の親が作ったのか」と。
それも違いましょう。ずっとさかのぼってゆけばどうなりましょうか。
誰が作ったのでしょうか。
先日一口法話で不思議の話をしましたが、こういうのが不思議なのです。
だれが作ったのか、だれが動かしているのか、いくら考えてもこれだというものを見出すことができません。
しかし、無いわけではありません。
実に不可思議なるはたらきなのであります。
この不可思議なるはたらきが仏さまなのです。
ですから、この手が仏さまなのです。
この手の動きが、仏さまのはたらきなのであります。
今この手はもちろんのこと、体全体を血液が循環しています。
誰が血液を循環させているのでしょうか。
自分の力でしょうか。
人の体の血管をすべて合わせると、なんと地球二周半にもなるのだそうです。
そんな長いものをどのようにしてこの体におさめたのでしょうか。
さらに神秘的な出来事は、今も私たちの体の中で起こっています。
心臓が送り出す血液の量は、どのくらいの量になるのでしょうか。
一日に送り出す血液量は、およそ八千リットル、二リットルのペットボトルが、四千本です。
一生ではどうなりますか、もし八十年生きたとすれば、およそ二億三千万リットルで、これは、石油タンカー一隻分に相当します。
私たちのこの体には、石油タンカーを積んでいるようなものです。
この血の通った体をもって生きているいのちは、大いなる不思議ないのちがはたらいていると思わざるを得ません。
それを仏のいのちと言うのです。
呼吸もそうです。
一日に約二万回も行っているそうです。
だれがそんなにやっているのでしょう。
これも仏の不思議なはたらきとしか言いようがありません。
呼吸法というのもいろいろございます。
腹式呼吸がいい、丹田呼吸だ、おなかを膨らます、おなかをへこます、様々ございます。
どれもすばらしい効果がありましょうが、もっと大事なことは、この呼吸をしている事自体がすばらしい、不思議な仏のはたらきだと気がつくことです。
生きていること自体が不思議な仏のいのちそのものなのであります。
そう気がつくと自然と両手が合わされるのであります。
横田南嶺