趙州和尚という人
西には、投子禅師か雪峰禅師だろうかと仰せになっていました。
私たちは臨済宗なので、当然臨済禅師をあげるのかと思いきや、そうではないのでした。
それほどまでに趙州和尚という方を高く評価されていました。
かの道元禅師も「趙州以前に趙州無く、趙州以後に趙州無し」と仰せになったほどなのです。
何せ長生きでした。
西暦七七八年にお生まれになって八九七年にお亡くなりになっていますので、なんと百二十歳という長命なのです。
趙州禅師語録には、
「師は南泉の門人である。
俗姓は郝氏、曹州の郷の出身で、僧名は従諗という。
鎮府に塔がある。
その記にいう、「師は七百甲子を得たかと思われる。はからずも、武王の仏教に対する容赦ない仕打ちに遇って、岨崍山に難を避け、木の実を食い、草で作った衣を着ながら、僧としての威儀を変えなかった」
と書かれています。
甲子というのは、ここでは六十日のことで、約百十五年になります。
「武王の仏教に対する容赦ない仕打ち」というのは、「会昌の破仏」と言われる「法難」であって、八四五年から八四七年にかけてなされた仏教の大弾圧です。
趙州和尚が七十三歳から七十五歳頃のことです。
そんな困難な状況を乗り越えて来られたのが趙州和尚です。
更に『語録』には、
「師は初め本師に随って行脚して、南泉に到った。本師がまず初対面の挨拶を終えてから、師が相見した。
南泉はそのとき方丈の内で横になっていたが、師がやって来るのを見ると、すぐにたずねた、「どこから来たか。」
師、「瑞像院です。」
南泉、「瑞像を見たか。」
師、「瑞像は見ませんが、寝ていらっしゃる如来さまは見ました。」」
ということが書かれています。
瑞像院という寺の名前にかけて、めでたい仏像を拝んだかと問うたのです。
それに対して瑞像は拝みませんが目の前臥如来を見ていますと答えたのです。
これはなみなみならぬ小僧だと思って、『語録』には、
「 そこで南泉は起き上ってたずねた、「おまえは主人のある沙弥か、主人のない沙弥か。」
師は答えた、「主人はあります。」
南泉、「おまえの主人はどなたか。」
師、「一月とはいえ、まだ寒うございます。畏れながら、老師にはご尊体ご健祥にて祝着に存じ上げます。」
そこで南泉は維那を呼んでいった、「この沙弥は、特別の席に坐らせろ。」」というのであります。
もう自分の目の前の南泉和尚を我が師にして挨拶しているのです。
これがまだ趙州和尚十七歳頃のことです。
南泉禅師のもとに入門してしばらくして悟りを開いたのでした。
それから南泉禅師のもとで四十年も修行されました。
五十七歳になって南泉禅師がお亡くなりになり、お墓守りを三年なさって、それから六十歳で行脚しています。
その時に「七歳の童子でも自分より勝れている者には教えを乞おう。百歳の老翁でも自分に及ばない者には教えてやろう」と願いを起されて行脚したのでした。
趙州の観音院に住したのは八十歳のときで、それから四十年教化され、百二十歳で亡くなったのです。
駒澤大学の小川隆先生が、禅ではいかにして悟るかということも説かれているけれども、それは禅の語録にとかれている半分であり、大事なのは、悟ったあとにいかに悟りを忘れ去って普通に生きるかという問題を追及していることだと仰せになっていましたが、まさに趙州和尚の如きは十代で既に悟りを開き、そのあとは、その悟りを忘れ去って平々凡々に生きたのです。
『語録』にある「十二時の歌」などは、まさにそんな心境を詠っています。
筑摩書房『禅の語録11 趙州録』にある秋月龍珉先生の現代語訳を参照します。
一部を抜き取って引用します。
「したおびはよれよれ、ももひきは破れて足を入れる口もない。頭には四五斗ほどの黒灰色のふけだらけ。
以前には修行して人を済度しようと望んでいた。それが変じてこのうすのろになろうとは、いったいだれが思ったろう。」
「荒廃した村の破れ寺、まことに話にもならぬ。
朝のお粥には全く粒がない。 ただ空しく静かな窓とそのすきまの塵とに向い合っている。
雀がやかましく鳴くだけで、親しむ人もいない。独り坐っていると、ときたま木の葉がしきりに落ちるのが聞える。
出家は憎愛を断つものとは、だれがいったのだろう。思い廻せば、われ知らず涙が出て、 手拭をうるおすことだ。」
「眉をひそめることは多く、心にかなうことは少い。 がまんがならぬは東の村の黒黄老だ。
お布施などついぞ持って来たこともないくせに、ろばを放ってわが堂前の草を食ませおる。」
「饅頭も鎚子も去年別れたきり。いま思い出して空しく唾をのむ。
正念を相続するのはわずかのあいだで、愚痴ばかりこぼしている。
百軒の壇家に善人はおらぬ。
寺を訪れる者は、ただ茶を飲ませろというだけ。茶を飲ませてもらえぬと、立ち去るときにプンプンだ。」
「頭を剃ったあげくが、こんなことになろうとは。
はからずも請ぜられて村僧とはなったものの、辱めとひどい飢えとのために死なんばかり。
胡張三や黒李四たち村人は、わしに尊敬の念など一かけらも起したことはない。
先刻思いがけず門前に現われたと思うたら、茶を貸してくれ、ついでに紙も貸せというばかりだ。」
というものです。
なんとも愚癡ばかりこぼしているようですが、実に深い味わいがあるのです。
悟り臭さが完全に抜けきった高い心境なのです。
仰ぎ見るばかりの趙州和尚の境涯なのです。
同時代の徳山和尚のように棒を振るうでもなく、臨済禅師のように一喝するでもなく、趙州和尚は何気ない一言で真実を示されたのでした。
それは口唇皮上に光を放つと賞賛されたのです。
横田南嶺