これさえあれば
とある方が、西園先生に、毎日10分ほどこれさえやっておけばいいという方法を教えて欲しいという要望をしていました。
西園先生には毎回三時間にわたってみっしりといろんなワークを教えていただきます。
そんなところから、これだけをやっていればいいというものを教えて欲しいという気持ちもわからなくはないのです。
しかし、西園先生は、そのような考えこそがよくないと指摘してくださいました。
まずからだの様子というのは、毎日変化するものです。
自分のからだの様子をよく見ることが大切です。
それをこれさえやればいいとなると、からだの様子など関係無しに、ただ動きだけをやってしまってよしとすることになりかねません。
ただ足の指を回すことにしても、ただ漫然と行うことはよくありません。
西園先生は、「ながら」でやるトレーニングを厳しく否定されています。
足の指を回しながら、からだがどう変化するか、からだとどうつながっているか、どんな連動が起っているかをよく感じて行わないと、ただ指を回すだけではだめなのです。
からだ全体をみる、からだ全体を感じる、しかもその日その日によって異なるからだを感じることが大切です。
これさえやればいいという動きだけを覚えると、自分のからだの様子などおざなりになって、ただその動きだけをやってよしとしてしまいがちです。
それではからだに変化は起きがたいのです。
西園先生の仰せになることはよく理解できます。
もっとも毎日行う訓練にも意味がないわけではありません。
最近ヨガの先生に坐禅の前に10分行って姿勢が調い坐禅をしやすくなるワークを考案してもらって毎朝修行僧皆で実習しています。
これは確かに毎日同じことですが、行うことによって股関節が柔らかくなり、広げやすくなって、よく坐れるようになるものです。
しかし、ただかたちだけなぞればいいと思ってしまうと勘違いになってしまいます。
これさえやればいいというものを作ってしまうと、それ以外のことに目が行かなくなる恐れがあります。
先代の管長に長くお仕えさせていただいていろんなことを学びましたが、その教えのひとつにマニュアルを作るなということがあります。
修行道場の行事などは、いろんな決まりがありますので、どうしてもそれをマニュアルにしたくなるものです。
これさえやっておけばだいじょうぶというものが欲しいものです。
そこで、毎日の行事にしても、或いは年に一度の儀式にしても、間違えないようにマニュアルを作りたくなるものです。
また不思議とそのマニュアルを作るに長けた方がいるもので、作ってしまいます。
しかし、そのマニュアルのもととなってものは何かというと、その時その場において、こうするのが適切だと判断したことにほかなりません。
マニュアルにするとそのかたちだけが残ってしまいます。
ひょっとしたら、そのマニュアルのもとになることが、その年その日にだけふさわしいものだったかもしれないのです。
次の年には異なるかたちになる可能性もあるものです。
ところがマニュアルにすると、その変化がなくなってしまいます。
たとえば、大本山の年に一度の儀式などにしても、間違えないようにとこの頃はビデオに録画したりします。
ところが録画したものが間違っている場合もあります。
私などもそんな現場に遭遇したことが何度もあります。
録画すると聞いていて、その時にある年長の方が所作を間違えてしまいました。
それはそれまでの打ち合わせと異なるものなので、明らかに間違いでした。
ところが録画中ですので、その場で指摘するわけにもゆかず、そのまま録画されてとうとうその誤った所作が、正しい所作としてずっと引き継がれていったのです。
とあるお茶の家元と話をしていて、絶対にビデオや録画を撮って稽古させることはしないと仰せになったことがあります。
録画でもすると、そのときたまたま虫が飛んできて払ったら、その払う所作が正しい動作だと伝えられることになりかねないのです。
それでも毎回何もないと困るので必要最小限の備忘録を作るのですが、先代の老師に見つかると没収されたものでした。
こんなものを作ると考えなくなるというのでした。
いろんな行事にしても、その時の気候、来る人の様子、年齢、いろんなことを考えながら、その時その場にふさわしいものを工夫することが大事なのです。
こういうことがなかなか理解してもらえなくて困ることが多いのが実際です。
とくにお若い人は不安になるので、毎年同じようにマニュアルを作り、ビデオなどを作りたがるものです。
何かというと、去年はこうしていましたと言います。
それはたまたま去年そうだったからで、今年はそうとは限らないのです。
これは笑い話ですが、ある夏の日、修行僧が梅の天日干しを始めました。
それも土砂降りの日に、トタン屋根の下で干していたのでした。
それで「なぜこんな雨の日にやるのだ?」ときいてみました。
そうしたら、「備忘録に、去年の今日、梅を干すって書いてありました」と言うのです。
きちっと梅干しの備忘録が出きていたのです。
しかし、昨年のその日は、良い天気だったから干したのであって、毎年決まった日に必ず干すということではないのです。
自分で考えることをせずにマニュアルに頼っていると、そうなってしまうのかと、恐ろしく思ったことでした。
「前にやった人の備忘録の通りやるのが、失敗する確率は低く一番安全だろう」と、おそらくその修行僧は考えたのでしょう。
人は失敗すること、そして叱られることを恐れて、マニュアルに頼りたがるものです。
それで最近は、「こうすればうまくいく」といった、公式化された方法論がもてはやされていますが、みんなが同じようなやり方でうまくいくなんてことは有り得ません。
禅で「不立文字」というのも同じようなことかなと思います。
もし言葉で表現してしまうと、その全体を見ずに、言葉で切り取られた部分だけしか目がゆかなくなってしまいます。
言葉にすることすら恐ろしいのです。
ほんとうに自分で感じて欲しいのなら、なにも言わないのが一番でしょう。
そとの空気を感じましょうというと、その言葉によって、内側に目がゆくことがなくなります。
仏という言葉を用いることによって、それ以外のものを見失います。
かえって仏から遠くなってしまうのです。
ながらく仏法を学ばれた方が、仏法というのは結局これというものがあってはならないのですと仰せになっていたことを思います。
南宋の時代に禅の教科書のような『碧巌録』ができあがった時に、大慧禅師がそれを燃やしてしまったという故事がありますが、分るような気もするのです。
横田南嶺