時代の子、一休
芳澤勝弘先生の大著『一休宗純 狂雲集再考』の出版を記念して行われました。
芳澤先生には久しぶりにお目にかかることができました。
コロナ禍ということもあって、長らくお目にかかっていませんでした。
かつては、白隠フォーラムや白隠塾などでお世話になったものでした。
芳澤先生は、諏訪の生まれで、私の兄弟子であり東福寺の管長を務めた遠藤楚石老師と同級生でいらっしゃいます。
昭和二十年のお生まれです。
同志社大学を出て、禅文化研究所主幹を経て花園大学国勢禅学研究所教授を務められました。
今回の企画も国際禅学研究所の主催であります。
芳澤先生のご功績では、なんといっても白隠禅師の書画の研究がございます。
膨大な数の白隠禅師の書画を調査し研究し、その難解な画讃を悉く読み解かれたのでした。
そして二〇一二年から二〇一三年にかけて、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで、「白隠展HAKUIN禅画に込めたメッセージ」を監修して開催されたのでした。
この企画で、白隠禅師の書画への注目がいろんな分野の方からなされたのでした。
近年は一休の研究をなさっているのです。
二〇一五年に、別冊『太陽』で「一休 虚と実にいきる」を監修されています。
その年に都内で一休のシンポジウムも開催されていました。
更に二〇一七年に花園大学でも一休のシンポジウムが開かれています。
コロナ禍もあって、今回は、六年ぶりに開催されたのでした。
会の前に控え室で芳澤先生にお目にかかると、とてもお元気なご様子で安堵しました。
今回の著作は六〇〇ページを超えるのですが、芳澤先生はコロナのおかげでどこにも出かけられなかったので、この本が出来たのだと仰っていました。
会場には、百数十名の方が集まる盛況でありました。
私が開会の挨拶をさせてもらったのは、昨日お話した通りです。
そのあと芳澤先生のご講演でありました。
まず芳澤先生は、その人の思想を学ぶには、あらゆるバイアスを除かないといけないと仰いました。
特に今の時代の感覚で一休をみてはいけないというのです。
そこで、室町時代のお寺の様子がどんなものだったかということからお話し下さいました。
まずお寺にどれくらいの人がいたかということです。
私なども円覚寺にいると、円覚寺にはいまどれくらいのお坊さんがいるのですかと聞かれます。
まず修行道場には二十数名、山内には塔頭というお寺があって、そこにも住職や副住職がいますので、その和尚さん達は二十数名、それに本山に勤めている和尚が十数名います。
それで大体五十数名になろうかと思います。
塔頭はただいま十七ヶ寺残っています。
それぞれに住職が一人、もしくは副住職と二人の和尚さんがいるのです。
ところが一休禅師の生きた室町時代のお寺というのはそんな規模ではないのです。
たとえば京都の相国寺では、応仁の乱の前には、八〇〇名もいたそうなのです。
応仁の乱の後に三〇〇名となったのです。
塔頭は十三あって、法要の際には七百五十名も務めていたというのです。
また嵯峨嵐山のあたりの地図を示されて、天龍寺や臨川寺などを中心に一五〇あまりのお寺があったのでした。
そんな禅宗の寺に大勢の僧が集まって暮らしていました。
また驚くことに武装もしていたのです。
一人前の和尚になる儀式をするときに、みんなの前で問答するのですが、諍いが起って刃傷沙汰になっていることもあるのです。
役人に捉えられる和尚までいたのでした。
それから閉籠ということがよく行われていたというのです。
閉籠を『広辞苑』で調べると、
「部屋などに閉じこもること。
中世、人々が抗議の意思を示すため寺社などに閉じこもること」と解説されています。
寺には何百名もの僧侶や在家の方が住んでいて、時に武力で争ったり、閉じこもったりして紛争があったというのです。
芳澤先生は、綿密な資料を用意してくださって、はじめに京都五山の寺にどれくらいの人がいたのか、どんな様子であったのかを時間をかけて丁寧にご説明してくださいました。
私は、その話を聞きながら時間を気にしていました。
講演は一時間なのです。
一時間の講演というのはたいへん難しいのです。
うっかりはじめの方で、時間を使いすぎると終わりの大事なことを伝えるのに時間が足りなくなってしまいます。
なかなか一休禅師その人が出てこないで、人数や紛争や閉籠の話が続いてだいじょうぶだろうかと心配になったほどでした。
多くの資料もまだ大半を残している状態で、この人数などの話で時間を費やしてどうなるのかと思ったのでした。
火災も相次いでいたということから、ようやく大徳寺も火災に遭っていることから、その時の一休の詩を紹介されて、ようやく一休禅師に入っていったのでした。
修造できた大徳寺をご覧になって作った一休禅師の詩は、開山大燈国師の塔所はお粗末な庵なのに、一休禅師の兄弟子の養叟和尚の塔頭はまるで黄金の御殿のようだと、養叟和尚の批判となっているのです。
さて、長い時間をかけて室町時代の様子を語られたのには深い意味がありました。
当時のお寺というのは今の私たちが想像するお寺の様子ではなく、多くのことを学ぶ学校、とりわけ大学のようなものだったと説明されました。
和尚が一人で住む寺ではなく、何百名もの僧が学ぶ処でありました。
まだ大学などが無い時代です。
そこが学びの場だったのです。
しかしその大学で、閉じこもりが起きたり、火事が起きたりしていたのでした。
それは実に我が国では一九六〇年代の末から起きた学園紛争さながらの状況だったというのです。
芳澤先生の学生時代は、まさにこの学園紛争の最中でした。
私の兄弟子の遠藤老師も、大学にいっても紛争ばかりだったので、出家を志したと仰っていました。
何百名もの僧たちが、閉じこもって武力闘争していたのでした。
そんな時代に生きたのが一休禅師なのだというのです。
平穏な時代に生きたのではないのです。
そこで芳澤先生は一休禅師を「時代の子」だったと仰いました。
私はその話を聞いてなるほどと思いました。
私などは語録などからだけで、その人を見ようとします。
しかし、その時代を見ないと、今の時代の感覚で見ると、既にバイアスがかかっています。
時代がそんなに混乱している時だからこそ、一休禅師は敢えてご自身を「風狂」と称したのだと思いました。
まともに生きようとすれば、時代に流されるか、狂ってしまいかねません。
自ら「風狂」と称することによって、自分自身を安定させていたのではと思ったのでした。
「風狂」は単なる「風狂」ではないのです。
そうしてみてはじめて「風狂」の意味が分かった気がしました。
しかしながら、芳澤先生は一休のようは人ばかりでは、禅は亡びると仰せになりました。
一休を喜んでいるようではダメだというのです。
そして最後には、なんと現代の大谷翔平さんの言葉で締めくくられました。
憧れるのをやめよう、憧れていては越えられないという言葉です。
一休に憧れているようでは、越えられないのです。
そうして見事に時間ちょうどに終えられたのでした。
さながら一場の名演を拝見したような感動でした。
拝聴してよかったとしみじみ思った講演でした。
横田南嶺