有り難き法縁
大興寺様の先代のご住職が、とても布教に熱心な方だったそうで、清水寺の大西良慶和上や浄土真宗の金子大栄先生、臨済宗では山田無文老師や松原泰道先生など錚々たる方々が講師をつとめておられる由緒ある会です。
今でも清水寺の森清範貫首や、曹洞宗の青山俊董老師、臨済宗では高名な玄侑宗久先生、カトリックの鈴木秀子先生、姜尚中先生などが法話に見えていらっしゃるのです。
そんな法話会に、私如きがお招きいただくのは恐縮千萬であります。
有り難いことに、令和元年の九月以来毎年お招きいただいて今年で五年目となりました。
一昨年の令和三年からは春四月にお招きいただいています。
一昨年から大興寺様に着く前に、近くにある華厳寺にお参りしています。
華厳寺は以前にも紹介したことがありますが、西国三十三ヵ所札所の最後のお寺であります。
一番が、紀の国那智山青岸渡寺であります。
そして終わりの三十三番が、この華厳寺なのであります。
那智山はふるさとの近くでありましたので、子どもの頃からよくお参りしていました。
それだけに三十三番札所というのは親しみを覚えます。
令和三年にお参りした時には、門前のお店もすべて閉まったままで、お参りする人もほとんど無くてひっそりしていました。
昨年は少しお参りの方もいらっしゃいました。
今年はほぼすべてのお店が開いていて、大勢の参拝の方々が見えてくださっていました。
この三年でずいぶんと景色が違ってきたものです。
華厳寺の参道がすばらしく桜の花の咲く頃には、大勢の方が見えるそうです。
桜の花は終わったものの、ちょうど新緑がきれいで美しく、折からなんともいえない涼しい風が吹き渡っていました。
華厳寺から大興寺様までは車ですとすぐに着くところにあります。
お寺の皆様のあたたかいお迎えをいただいて到着しました。
控え室に通されると床の間には、永平寺の宮崎奕保禅師の般若心経の写経がかけられていました。
九十歳を超えてのお写経であります。
半紙のような紙に丁寧に書かれていました。
宮崎禅師は、明治三十四年一九〇一年のお生まれです。
札幌の中央寺の住職を経て、九十二歳で永平寺の禅師様にご就任なさたのでした。
そのご高齢でも、毎朝坐禅堂で修行僧達と共に坐禅なさっていて、そんなお姿はNHKのテレビでも放映されたことがありました。
お若い頃には、臨済宗の大徳寺僧堂でも修行された方でありました。
数え年の百八歳でお亡くなりになるまで永平寺の貫首様でいらっしゃいました。
私が宮崎禅師の書ですねと申し上げると、大興寺の和尚様が、宮崎禅師もこの大興寺に法話に見えたこともあったとの話でした。
そんな方々が法話なされてきた中で、私などが話をしていいのだろうかと改めて身の引き締まる思いがしました。
また別室には私の師匠である小池心叟老師の達磨画讃もかけてくださっていて、和尚様のお心遣いが有り難く感じられました。
法話は「慈悲のこころを」という題で昨年に出した絵本『パンダはどこにいる?』の話から始めました。
パンダが、自分がパンダであることに気がつかずに、パンダを外に向かって求める話です。
ようやく自分自身がパンダであると気がつくことでき、パンダはパンダであることにくつろぐことができるようになりました。
そんなパンダの姿を見てはまわりの人も心も癒されているゆくという話です。
慈悲の心というのは、自分自身が仏であると気がついて、安らかでくつろぐことができて、はじめてまわりにも自然と伝わってゆくものです。
そこで今回は「至道無難禅師法語」から言葉を紹介しました。
「人は家を作りて居す。仏は人の身をやどとす。家のうちに亭主つねに居所あり、ほとけは人の心にすむなり。
じひにものことやわらかなれは、心明なり。心明なれは、仏あらはるるなり。
心を明にせんとおもはは坐禅して如来にちかつくへし。」
という言葉です。
「人は家を作って住む。
仏は人の身を宿としてそこにお住みになる。
家のうちに亭主(主人公)はつねに居所を持つている。
仏は人の心の中に居所をお持ちになつているのだ。
慈悲の心によって、ものごとが柔かに行はれれば、心は明らかになる。
心が明らかになると、仏が現れるのである。
心を明らかにしようと思ったら、坐禅をして仏に近づくがよい。」
という意味です。
「たとへは火はものをこがす、水はものをうるほす。火は物をこがすと、其火はしらず、水は物をうるほすと、其水はしらず、ほとけはじひして、じひをしらず。」
という言葉もあります。
こちらは「たとへば、火はものを焦がす、水はものを潤ほす。
しかし火は自分でものを焦がすといふことを知らず、水はものを潤すとは自ら知らない。
そのやうに仏は慈悲の行ひをしながら、それをしていることを意識せずにいる」という意味です。
それから
「火のあたりはあつし。水のあたりはひややかなり。大道人のあたりへよれは、身の悪きゆるなり。これを道人といふ、おそろしき事なり。」
とありますが、これは、
「火に近い所は熱い。
水のあたりは涼しい。
立派に道を得た人の近くに寄れば、身の悪業は消えるものだ。
これを道人といふ。うつかりと道人などというのは恐ろしいことだ。」
という意味です。
現代語訳は、『日本の禅語録15無難 正受』から引用しました。
火のそばによると自然とあたたかくなり、水のそばでは自然と涼しくなるように、慈悲の人のそばにいるだけで、自然と心があたたかくなって悩みが消えてゆくものなのです。
そんな慈悲の心をお話したのでした。
会場には、理学療法士の伊坪さんもお見え下さっていました。
久しぶりにお元気な伊坪さんにもお目にかかれて有り難く思いました。
五年も通っていると、一層親しみが湧いてくるものです。
またこの法話会は、コロナ禍の間も休むことがありませんでした。
そして更にオンラインでの公開もなされるようになって、より一層多くの方にご縁を結んでおられるのです。
コロナ禍でなにもかもやめてしまうところもありますが、このように熱意と願心によってより多くの方に法縁を結ばれるところもあります。
大興寺和尚様の熱意にはこころ打たれるのであります。
有り難い法縁であります。
横田南嶺