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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.04.06
今日の言葉

教えることは危ない

毎月、滋賀県で高校教師なさっている方から、『虹天』という冊子を送っていただいています。

毎月有志の方々と勉強会をなされていて、その講演をまとめて掲載されています。
昨年の八月には私も講演をさせてもらったのでした。

今月の『虹天』からは多くの事を学びました。

まずは巻頭に「亡くなる三日前の電話」という題の文章であります。

ハガキ道の伝道者坂田道信先生の訃報について書かれています。

坂田先生は、昭和十五年の生まれであります。

八十三歳でいらっしゃいました。

私も致知出版社のご縁で何度かお目にかかったことがあり、一昨年には対談もさせてもらっています。

対談のときのことは今もよく覚えています。

致知出版社の本社の玄関に入ったとたんに、坂田先生の大きなお声が、社内に響き渡っていました。

明るく正直な方であることがよく分かるお声でありました。

坂田先生は、その著『ハガキ道に生きる』(致知出版社刊)によると、

「私は学問など何もしていません。ただ、百姓をしながら自然から多くのものを学んだ、それが森先生の教えとぴったり合ったのです。」

と述べておられるように、森信三先生に出逢ってハガキを書くようになられたのでした。

しかし、「ところが、ハガキを書く段になってハタと困りました。 漢字もろくに知らないのです。

そこで小学校の五、六年生が書くようなハガキを書こうと思いました。

しかし、平仮名ばかりの文章ではまたバカにされますから、一枚のハガキに最低三個の漢字を入れようと、辞書を引きながら書きました。

最初の一枚はずいぶん難儀しました。たぶん二、三時間かかったと記憶しています。」

と書かれているように苦労してハガキを書かれるようになったのでした。

わたくしが対談した折には、毎日三十枚はハガキを書かれるとか、年賀状は毎年二万枚届くというのですから驚いたことでした。

『虹天』を作っておられる北村先生も、九年間坂田先生にほぼ毎日ハガキを書かれて、2791枚出されたと書いていました。

ハガキ道の方はすごいものだと思います。

さて『虹天』には、坂田先生がお亡くなりになる三日前に四十分にもわたって電話で話をされたと書かれていました。

その会話の中にこんな言葉が書かれていました。

坂田先生が「あの~、教えるということは危ないんですよ」と仰いました。

北村先生が「どういうことですか」と聞くと、

「勉強会とかで偉い人がいろいろ教えることがあるだろ?

あれは皆さんにとっては実はよくないんですよ。

参加者のお互いの学び合いの中で、自分で気づいたことが一番役に立つ・・・、ということ」

というのであります。

教えるということは危ないという一言は心に響きました。

考えさせられました。

教える側も教えてやったと思ってしまいますし、学ぶ方もただ聞いているだけで、何か自分が偉くなったような気がしてしまいます。

素晴らしい講師の素晴らしい講演を聴いて、ああいい話だったで終わってしまって、本人はなにも変わらないことが多いのです。

なにも変わっていないのに知識だけが身につくので、自分が偉くなったような錯覚をしてしまいます。

先日武術研究者の甲野善紀先生と西園美彌先生との対談動画を拝見することがありました。

甲野先生の言葉が心に残りました。

「ほんとにできない人をアドバイスとしてあげるもので、たとえば自転車の補助輪みたいな感じで、あまりにもできない人にするための教えが、何か金科玉条になってすべての基本になったような変なことになっている。」

という言葉です。

自転車に乗れるようになるというのは、誰に教わるでもなしに乗れるようになるものです。

補助輪はあくまでも補助にしか過ぎません。

しかしその補助輪の付け方が金科玉条になってしまうことがあります。

腰骨を立てるにしてもまずお尻を後ろに突き出すように、お腹を前に出すようにと教えてもらってきました。

これは、今腰を落として坐っている人には必要であります。

しかし、それを金科玉条のように思ってしまってはとんでもないことになってしまいます。

私などもそれを金科玉条のようにして、お尻を後ろに突き出すようにして下腹を前に張り出していました。

これはお腹の前の方には力も入りますし、息も入ります。

しかし背中や横の方のお腹には入りません。

それでも十分丹田が充実している気がしていたのです。

ところが、先日西園先生に教わっていて、大きな変革が起きました。

そのような腰の立て方は意識と筋力で立たせているように思っているだけなのです。

本当に内側から立ち上がってくるものではありません。

先日西園先生に教わったワークで、私も腰の立て方が断然異なるようになりました。

そうすると無理なく坐れるのであります。

丹田が前方だけでなく三百六十度広がって充実するのです。

腰の負担も感じないのです。

坐っているだけで喜びがあふれてくるのです。

眼からウロコが落ちるようなとはよく耳にしますが、まさにそのような体験でした。

いつまでも喜んで坐りたくなるのです。

未熟なまま教えると、本来伝えるべきところとは全く異なるものを伝えてしまっているのではないかと、反省させられました。

教わる方も言葉だけを金科玉条にように受けとめるととんでもない勘違いだったりします。

教えることは危ないと肝に銘じた次第です。

 
横田南嶺

教えることは危ない

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