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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.04.03
今日の言葉

大智と大悲

小川隆先生の『禅思想史講義』を輪読してきて、先日最後まで読み終えることができました。

最終章は「第四講「無」と「近代」ー鈴木大拙と二〇世紀の禅」であります。

大拙先生の文章の引用が多くあります。

その章を皆で読んでいて、つくづく感じたのは、小川先生の文章の分かりやすさであり、大拙先生の文章の難しさであります。

大拙先生の難しい文章も小川先生によって解説されると、ようやく私などにも理解できるようになるのです。

『鈴木大拙全集』からの引用で次の文章があります。

「…禅はどうしても知識人でないといけないやうに考へられる。

学問のないもので禅者となったものもあるにはあるが、而して学問は時によると却て禅の了得を妨げると云はれもするが、事実上修禅は知識のあるものの方がよい。

元来何事によらず、思想の背景がないと、視野が狭くなり、信仰が衰萎し、人間が偏枯になつて、世間の役に立たぬ、又それでは自分をも十分に救はれたとは云はれぬ。

宗教は信だ、知識は不要だと云ふかも知れぬが、事実はさうでない。

知識・思想・反省は、何につけても人間としては欠いてはならぬ。」

というものです。

この文章などは、禅学者たる大拙先生のご見識だと思います。

「学問のないもので禅者となったものもあるにはあるが、而して学問は時によると却て禅の了得を妨げると云はれもするが」

と断っておられるますように、禅では学問のないことを卑下することもなく、むしろ誇る場合もあるものです。

六祖慧能禅師がはたして本当に字が読めなかったのかどうか、大いに疑問がありますが、文字が読めなかったことを誇っているところがあります。

また「学問は時によると却て禅の了得を妨げる」という一面もあるものです。

特に禅の修行を始める頃には、この学問や知識というものは妨げになるものです。

一度学問や知識を否定して、捨て去って、無分別の世界を体得することを大事にするのです。

禅は体験を重んじる宗教なのです。

しかしながら、あまりにも自己の体験にとらわれてしまうと、体験主義の弊害というものもでてきます。

自分の体験だけが貴いと思ってしまったり、自分の体験を他人にも強要しようとまでしてしまいます。

そうなると大拙先生の仰るように「思想の背景がないと、視野が狭くなり、信仰が衰萎し、人間が偏枯になつて、世間の役に立たぬ」となってしまうのです。

「禅は揚眉瞬目、咳唾掉臂、屙屎送尿のところにありとすれば、天下国家を料理するところは云ふに及ばず、各その職域を守りてその務めを果すところにもありと云はねばならぬ。

即ち政治の上にも、社会生活の上にも、民族相互の交渉にも亦禅ありと云ふべきである。」

という大拙先生の言葉には納得させられるものです。

まさしくその通りであります。

昔の農耕の暮らしだけは禅ではありません。

今の時代にあってそれぞれその職業に励むこともまた禅の顕れなのです。

更に大拙先生の言葉として「但々禅は一一の個化した事象につきて、一定の理論・思想・指導方針を持つて居ると云ふのではない。

一定の所与の事件を処理するに当りては、当局の人各々その分別智によりて意見を異にすることはあり得る。

禅の寄与するところは、是等分別の思想を働かす原理だけなのである。

此原理を無功用又は無功徳と云ふのである。

知の上で云ふときは、無知の知又は無分別の分別であるが、行の上では無功徳の功徳、無用の用である。」

と書かれています。

このところの大拙先生の文章からの引用はもっと長いのですが、小川先生は、

〔1〕「禅」は単に「無知の知、無分別の分別」にとどまるものではない。
〔3〕「禅」の「無分別の分別」は現代の実社会に対して有効である。
〔4〕「無分別の分別」は現代社会の運営に必要な諸「分別」をよく機能させる「原理」だからである。
〔2〕 したがって、「禅」を修める者には「知識・思想・反省」が必要である。

とまとめてくださって大いに学ぶことがありました。

1から4までにまとめてくださって、さらにその順番を考慮してこのような順序となって分かりやすくしてくださっているのです。

そこで小川先生は、

「唐代の禅者は、現実態というものを、茶をいれるとか、掃き掃除をするとか、歩いて川を渡るとか、そういった日常の起居動作の範囲で考えていました。

しかし、激動の二〇世紀ともなると、問題はもはやそんな範囲にはおさまりません。

大拙において現実態は「天下国家」「政治」「社会生活」「民族相互の交渉」という社会的・世界的規模にまでひろがり、そこでの「妙用」には近代的な「知識・思想・反省」との連動が必須となっていました。

それゆえ大拙は、初期の著作から一貫して、西洋近代の知性を学ぶことの必要性・重要性を説いてやみませんでした。」

とご指摘なさっています。

たしかに、中国の唐の時代において、著衣喫飯とか、畑を耕すという行動が禅そのものだという暮らしだったのでしょう。

今日になれば、それだけで済まさせるものではなくなりました。

戦争もございますし、環境の問題もあります。

ただ禅においては、やはり今までそのような時代に関わる問題には、ある程度の距離をおいていたように思います。

複雑な現代社会において「妙用」という素晴らしいはたらきを発揮するには、無分別だけではなく、その無分別智に裏打ちされた分別智も必要となってきます。

近現代の知性の発達に背を向けてただ農耕していればいいというのが禅ではなく、現代の諸問題にも十分対応できるはずなのであります。

大拙先生の『日本的霊性』には、

「衆生無辺誓願度は、分別の上で、他人の苦しみ、自分の苦しみというように分けて感ずるのでなくして、存在一般の苦しみ、世界苦、あるいは宇宙苦というようなものに対しての大悲の動きである。

宇宙苦を見るのは大智であるが、それからの離脱は大悲の能動で可能になる。

「見る」ということは、ただ見るということでなくして、脱離の大悲が動いて始めて見ることが出来るのである。

ただ見るということは有り得ない。

見ることは見ようとすることがあるからである。

それが大悲である。

大悲が先で大智は後であるといってもよい。

しかしこれは話の順序をいうので、事実経験の上では、悲即智、智即悲で、同時同処に動くのである。

それ故、大智があるところに大悲があり、大悲のある処に大智がまたあるわけである。」

という文章があります。

なかなか分かりにくいところもありますが、大智と大悲はひとつなのです。

何かをしてあげたいと思っても正しい智慧がないと、動物がかわいいからといってやみくもにエサを与えると、動物のためにならないこともあるのです。

欲しいものをただ与えればよいわけではありません。

正しい智慧に裏打ちされていないと、大悲にはならないのです。

ただ何かしてあげたいという大悲の気持ちが先に湧いて出ているのです。

はじめに大悲があるのです。

そして同時に大智がそこにはたらいているのです。

そうでないと大悲も十分にはたらくことができないのであります。

智慧と慈悲、大智と大悲はひとつなのであります。

 
横田南嶺

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