ひじ、外に曲がらず
はじめの頃の禅の教えが
「⑴ 各人の内面には「仏」としての本質ー仏性ーがもとから完善な形で実在している。
⑵ しかし、現実には、妄念・煩悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
⑶ したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。」
と小川先生が北宗の禅をまとめてくださったようなものでありました。
それが、六祖から馬祖の禅になると、
小川先生が「自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい」とまとめてくださっている教えに発展していったのでした。
正統な仏教の修行からみれば、なんともいい加減なと叱られそうであります。
実際に、攻撃もされていたのでした。
しかし、それが宋の時代になって公案を用いる修行が確立されていて、更に日本に伝わってきたのでした。
先日輪読したのは、「第四講「無」と「近代」ー鈴木大拙と二〇世紀の禅」という章であります
この章は、夏目漱石の『夢十夜』の引用から始まります。
「短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。
趙州曰く無と。
無とは何だ。糞坊主めと歯噛をした。
奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。
米噛が釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。」
というところです。
全伽はおそらく結跏趺坐のことかと思います。
結跏趺坐をして趙州和尚の「無」の一字に取り組んでいるのです。
趙州和尚に、僧が犬にも仏性がありますかと聞いて、趙州和尚が無と答えたのでした。
この無の一字を公案として参究するようになっていったのでした。
『無門関』の第一則になっています。
この第一則の評唱を小川先生が見事に訳してくださっていますので一部を紹介します。
「さあ、この関門を突破しようという者があるであろう。
ならば、骨の節々から一つ一つの毛穴まで、すべてを挙げて体まるごとに一個の疑いのカタマリを立て、“無”の一字を参究するのだ。
昼も夜もこれにとりくみ、そこに虚無という理解も、有る無しという理解も加えてはならぬ。
まっ赤に焼けた鉄の玉を丸呑みにしたように、吐こうにも吐き出せぬまま、これまでの悪しき知見をすべて滅し尽すのだ。
すると、じっくり熟成するうちに、自ずと内と外とが一枚になってくる。」
というものであります。
これを真剣に行うのであります。
『禅思想史講義』には、西田幾多郎先生が北条時敬先生について書かれた言葉が引用されています。
禅とはどういうものかという友人の質問に、北条先生は、
「脇腹に刃を刺し込む勇気があったら やれというようなことをいわれた。
ただそれだけである。(「北条先生に始めて教を受けた頃」 昭和四年/上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫、一九九六年、頁一六)」
というのであります。
この時代の禅に取り組む気迫が伝わってきます。
もはやありのままでよいなどというものとはほど遠いのです。
大拙先生の体験も引用されています。
「“無字”で一所懸命だったわけだ。(中略)
そんなことで、アメリカに行く前の年の臘八の摂心に、“これだ!” ということがあったわけだ。 (『世界の禅者ー鈴木大拙の生涯』)」
という修行を為されたのでした。
大拙先生は、そのときの体験を
「臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明かりの中の松の巨木と自己との区別をまったく忘じ尽くした、「自他不二」の、天地と一体の自己を体得したのである。(『世界の禅者-鈴木大拙の生涯ー』)」
と書かれています。
この体験について、小川先生は、大拙先生がアメリカから西田先生に書き送った手紙を引用されています。
明治三五・一九〇二年九月二三日付のものです。
「日本語の手紙ですが、訓読調の難しい表現」なので、意訳してくださっていますので、その一部を引用します。
「かつて鎌倉にいた時のことだ。
ある夜、所定の坐禅を終えて禅堂を下がり、月明かりに照らされながら、木立ちのなかを通り過ぎ、帰源院にもどろうと山門の近くまで下りてきたところ、突如、自分自身を忘れ去った。
いや、まったく忘れ去ったのでもなかったようだが、しかし、月明りのなか、木々の影がいりまじりながらくっきり地面に写し出されているさまは、あたかも一枚の絵のごとくであり、自分自身がその絵のなかの人となって、木と我の間に何ら区別なく、木が我であり、我が木であって、「本来の面目」がそこにありありとあるという気持ちがした。」
という体験です。
一所懸命に一つの公案に集中して坐っていると、誰でも大なり小なり、こういう体験を得ることができるものです。
しかし、それは禅の入り口にしか過ぎません。
大拙先生も、晩年の回想で次のように語っておられるのです。
小川先生の書物から引用します。
「“これで何年来の胸のつかえがおりた”という感もなかったわけではないが、一方また”これでまったくいい”ということもなかった。
このときはまあ無我無中(ママ)のようなものだ。」というのです。
更に大拙先生は
「アメリカへ行ってラサールで何かを考えていたときに、〈ひじ、外に曲がらず〉 という一句を見て、ふっと何か分かったような気がした。“うん、これで分るわい。 なあるほど、至極あたりまえのことなんだな。なんの造作もないことなんだ。 そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだ”と悟った。…… (『世界の禅者』頁一四九)」
というのであります。
小川先生の解説によれば、
「臂」はウデのことで、これをヒジの意に使うのは日本語のみの用法なのだそうです。
そしてこの「ひじ、外に曲がらず」の元々の意味は、小川先生によると、
「中国語としては「ウデは内にまがるもの」といった俗諺と同じく、人はしょせん、外の他人よりも自分の身内を庇うものだ、という意味」なのだそうです。
「しかし、日本の禅門では伝統的にこのことばをヒジが内側にしか曲がらぬようにーすべてはありのままにして且つあるべきようにあるといった意に解してきました。大拙もむろんそうした理解をひきついでおり、そこから「なあるほど、至極あたりまえのことなんだな」「そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ、不自由(必然)が自由なんだ」という、直観と確信を得たのでした」
ということなのであります。
一度なんの区別も差別もない、ただ一枚の空の世界を体験して、また現実のありままに戻ってくるのです。
この空の世界を体得する為に、きわめて人為的な方法ですが、公案というものを用いているのであります。
やはりもとのありのままに帰るのですが、しかし、そこに決してとどまらないところも禅の魅力なのです。
横田南嶺