尻もちをつけ
令和五年度、新年度のはじまりであります。
修行道場にも新しい修行僧が何名か入ってきてくれています。
新しい修行僧の姿を見るたびに、坂村真民先生の詩を思います。
初々しさ
初咲の花の初々しさ
この一番大切なものを失ってしまった
わが心の悲しさ
年々歳々花咲き
年々歳々嘆きを重ね
今年も初咲きの花に見入る
新たな気持ちで臨まなければと思います。
まずご案内することがあります。
昨年諏訪中央病院で、漢方医の桜井竜生先生と、内科医の須田万勢先生とで鼎談した動画が先頃公開されました。
諏訪中央病院の公式YouTubeチャンネルで公開されいます。
ほろ酔い勉強会という会で、テーマが『「癒し」ってそんなことだったの!?会議』というものです。
それぞれ三人がはじめに話をしておいて、最後に三人で語り合うというのものです。
私はまず「癒やし」というのはそもそも何だろうかと思って、『広辞苑』で調べてみたという話から始めました。
すると、なんと「癒やし」という言葉は、『広辞苑』第七版にはないのです。
「いやし」という言葉で調べると、「いやしい」という意味の「いやし」しかないのでありました。
上田紀行先生はスリランカの悪魔祓いについて研究され、悪魔祓いについてのシンポジウムを催され、その紹介記事に「癒やし」という言葉が用いられたというのです。
それが一九八八年十一月に新聞紙上で「癒やし」という言葉が使われたはじまりだというのです。
悪魔祓いという儀礼から、人と人とのつながり合いによって人は癒されていくのだという話をしました。
上田先生は、「癒しと治療は違う。治療が、障害のある部分や機能の回復であるとすれば、癒しとは存在全体の救済である」と言われいるのです。
あまり癒そうとすると卑しくなるし、癒されたいと願うのも卑しいものです。
人間は決して一人ではないという、大きなつながりを感じることが大切です。
それは人と人のつながりであったり、社会、家族、大自然などであったりします。
そんなつながりを感じると、癒そうとも、癒されようとも思わないのに癒されるという話をしたのでした。
桜井先生は、諏訪での講演ということから、諏訪地方の平均寿命について話をなされました。
一七世紀後半から十八世紀はじめ頃にかけての平均寿命は男性が三七歳、女性は二九歳なのでした。
それが十八世紀前半から後半にかけては、男性が四十三歳、女性が四十四歳なのでそうです。
更に縄文時代の平均寿命はというと、十四歳から十五歳というのでした。
弥生古墳時代も同じように十四歳から十五歳。
鎌倉時代には、由比ヶ浜の遺跡から二百六十体の遺骨を調べてみた結果、平均寿命は二十四歳ということでした。
江戸時代の農民は男性三十六歳、女性二十六歳ということ、江戸時代全体の平均寿命は男性四十五歳、女性は四十歳というのでした。
そうなってくるとだんだんと平均寿命は長くなると思って聞いていると、なんと明治時代になると、一時平均寿命がぐっと下がるのでした。
明治十三年には三十歳くらいになってしまうのです。
明治三十三年でも男性が三十八歳、女性が三十九歳なのだそうです。
なぜ明治になって平均寿命が一時下がったのか、桜井先生のお話によれば、西洋的な暮らしが入って来て、一気に早死にするようになったということでした。
とても興味深い情報がたくさんございました。
最後に須田先生をまじえて三人の鼎談となっています。
私も公開を前にして改めて拝見していて、なるほどと思う事がたくさんありました。
是非お手すきの時にでもご覧いただければ幸いであります。
それからもうひとつご紹介するのが、花園大学での私の講座についてであります。
大学の「禅とこころ」という授業で、毎月一度お話させてもらってきました。
大学の総長になって初めて講義をしたものをまとめたのが『禅と出会う』という書籍であります。
コロナ禍となる前は、この講座は公開講座で一般の方々にも大勢来てもらっていたのでした。
それがコロナ禍となって、学生のみとなり、その学生もずいぶん人数を絞って開催されてきたのでした。
昨年度は、般若心経に学ぶと題して六回講義をしました。
こちらは、今も公開講座花園大学のYouTubeでご覧いただくことができます。
今年度は、「臨済録に学ぶ」と題して講義をします。
今までは申し込みもなにもなかったのですが、今回から有料で申し込み制となっています。
花園大学のホームページから申し込むことができます。
かなり人数を限定することになりますので、申し込みされた方とは、講義のあとに質疑応答など懇談の時間も設けています。
京都近郊の方で申し込みいただければ、直にお目にかかれることになります。
それからもうひとつのご案内は、円覚寺の花祭りであります。
四月八日午前十時から円覚寺の仏殿で行われます。
この三年間は、一般の方は仏殿の中には入れなかったのですが、今年は仏殿の中にお入りいただいてお詣りしていただくことができます。
一時間ほどの儀式で、写真撮影や途中での退席は原則できないのですが、一時間にわたる円覚寺の法要に参列することができます。
他の本山にはない円覚寺独特の節回しのお経などもあって興味深いものです。
鎌倉近郊の方で、四月八日土曜日午前十時、お時間があればお参りいただければ幸いであります。
四月九日の日曜説教も、申し込み無しでご参加できますのでこちらもよろしくお願いします。
さて先日魔女トレノ西園美彌先生にお越しいただいて講習を行っていただきました。
今回は初めて足指のトレーニングは無しでした。
おもに股関節のトレーニングでありました。
はじめてにテンセグリティーについてのお話がありました。
これは少々説明するのは難しいものです。
あとは専ら股関節と腰で立つということを体感しました。
今までも何度も自分の腰の立て方の間違いに気がつかされてきましたが、今回のワークでもまた自分の腰の立て方の大きな過ちに気がつくことができました。
腰を立てる、ただこれだけのことがこれほどまでに奥深いのかと再認識、いや再々認識させられたのでした。
立つ姿勢にしても西園先生は、いつも拇指球、小指球、かかとの三点で立つと教えてくださいます。
拇指球で立つには、股の内旋筋を用い、小指球は股の外旋筋、かかとはハムストリングという股の裏側を使うという説明には納得がゆきました。
すっと立つだけでもいろんな筋肉が関わり合い、多くの筋肉がバランスをとっているのです。
講座のあとでお茶を飲んでいて、いつも講座に参加されている方が西園さんに質問されました。
その方はヨガを習っているのだそうで、ヨガの講座でヨガの先生の手を全力で引っ張るという動きをなさっていたらしいのです。
ところがいくら全力で引いているつもりでも、ヨガの先生からは、まだ逃げていると言われてしまうそうなのです。
どこがどう逃げているのか分からないというのでした。
そこで西園先生は、即座に自分の手をその方に引っ張らせてみました。
すぐに一言、尻もちをつくんだと思って引いてみなさいと仰いました。
尻もちをつくのだと思って引く、それだけで変わったのでした。
そばでみていてもその変化が分かりました。
尻もちしないようにと、気がつかないうちに、自分の脳が自分自身に制御をかけていたのです。
尻もちをついていい、むしろ尻もちをつくんだと思って引くと、体が全力を使って引くようになったのです。
足にまで力が満ちて引くように変わりました。
その方も、自分の脳が無意識のうちに、体を制御したことに気がついたと言っていました。
わずかの動きで、たった一言で体の動きをがらりと変えてしまうことをまのあたりにしました。
まるで唐の時代の禅問答のようだと感じました。
一言で相手の迷いを転じてしまうのです。
このことはいろんな状況にも通じることです。
転ばないように、失敗しないようにという思いが無意識のうちにお互いを制御してしまっていることがあると思います。
むしろ、転ぶんだ、失敗するんだと思うと、がらりと変わることがあると学んだのでした。
横田南嶺