桃花、春風に笑む
しかし実際に桃の花が咲くのはもう少しあとになります。
この三月三日というのは、元来は旧暦の三月三日のことなので、今の暦では四月のはじめ頃になるものです。
昨年の旧暦三月三日は四月三日でありましたが、今年は四月二十二日になります。
これは閏月というのがあるからなのであります。
桃の花にちなむ禅の話であります。
『碧巌録』の第六十二則に
「雲門、衆に示して云く、
乾坤の内、宇宙の間、中に一宝あり、形山に秘在す。」
という言葉があります。
一宝とは仏性、仏の心です。形山とはお互いの肉体を指します。
雲門禅師がお説法の折に、
「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝があり、肉体に隠れている」というのであります。
この言葉は実際には雲門禅師の言葉ではなく、肇法師の『宝蔵論』にあるものであります。
その『宝蔵論』の言葉を用いて、更に雲門禅師は
「灯篭を拈じて仏殿裏に向い、三門をもって灯篭上に来たす」と言ったのでした。
灯籠を掲げて仏殿の中に行き、三門をとって灯籠の上に乗せるというのです。
灯籠は持ち運びのできるものですので、灯籠を持って仏殿の中に入るのは理解できますが、あの大きな三門を灯籠の上に乗せるというのは、不可解なことです。
こういう難しい問題を何日もかけて坐禅して解いていくのであります。
古くは白雲守端禅師の語録にもこの言葉がございます。
ある時の白雲禅師のお説法に、
「上堂して云く。乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り。形山に秘在す。大衆、眼、鼻上に在り、脚、肚下に在り。且く道え、宝、甚処にか在る。乃ち云く、人面は知らず何れの処にか去る。桃花、旧きに依って春風に笑む」とありますす。
「天地の内、宇宙の間、その中にひとつの宝があり、肉体に隠れている」といっておいて、皆の衆よ、眼は鼻の上にあり、足は腹の下にある、さあ言ってみよ、宝はいったいどこにあるのか。そこで言われた、人はどこに行ってしまったかわからないけれど、桃の花は前と変わらずに春風に微笑んでいる」という意味であります。
「人面は知らず何れの処にか去る。桃花、旧きに依って春風に笑む」の一句は、唐代の崔護という人の詩です。
詩の全文は
「去年今日、此の門の中。
人面桃花、相映じて紅なり。
人面は知らず何れの処にか去る。
桃花旧きに依って春風に笑む」です。
意訳しますと、
「去年の今日、この門の中であなたと出逢った。
折しも咲いていた桃の花とあなたのお顔と共に相映じて実に美しかった。しかしその人はどこに去っていたのか知るよしもない。ただ桃の花だけが以前と同じようにこの春風に咲いている」というところです。
西安の崔護は青年時代に、進士の試験に受かる前に郊外を散歩していて、のどが渇いた為に、ある屋敷で水を求めました。
すると花木の生い茂る、その家の門に美しい娘が現れました。
その時は水を所望して別れました。
一年後再び娘を思って家を尋ねたのでした。
しかし門は閉ざされて誰もいませんでした。
そこで崔護は先の詩を門に書いて去ったという話です。
円覚寺の開山仏光国師の高弟に仏国国師高峰顕日という方がいらっしゃいます。
後嵯峨天皇の第二皇子でいらっしゃり、円覚寺の無学祖元禅師について修行された方であります。
栃木県那須の雲巌寺を開かれた方でもあります。
そのお弟子が夢窓国師です。
夢窓国師は京都の天龍寺の開山であり、七人もの天皇から国師号を賜り七朝帝師と称されたほどの方であります。
仏国国師はその夢窓国師の師なのです。
仏国国師は大寺院に出世することを嫌って、まだお若い頃から人里離れた那須の地に雲巌寺を開創され、純粋な修行の暮らしを貫かれた方であります。
この雲巌寺の本堂には、「人面は知らず何れの処にか去る、桃花旧きに依って春風に笑む」と書かれた額が掲げられています。
雲巌寺には何度かお参りしていますが、今も風光明媚な雲巌寺の境致とこの句とはよく合っているとお参りするたびに感じます。
仏国国師の語録を見ると、ある年の三月一日のお説法に、「三月好光景、溪山春色濃かなり」と三月の景色の見事なことを讃えておられます。
桃の花も咲いていたのかもしれません。
桃の花を見て悟りを開かれた禅僧が霊雲禅師であります。
その霊雲禅師のことを取りあげて、「人面は知らず何れの処にか去る、桃花旧きに依って春風に笑む」と示されているのです。
この桃の季節になって、先頃お身内に亡くされたという方に、「桃花、春風に笑む」の一句を色紙に書いて手向けました。
一周忌の方もあり、三回忌の方もいらっしゃいます。
一年であろうと、三年であろうと、それぞれに別れは悲しいものです。
人は必ず死を迎えます。
やがては別れなければならないものです。
しかしながら、大自然は変わることがありません。
また去年と同じように花が咲き、鳥は鳴きます。
その咲く花に、鳴く鳥に、吹く春の風に、永遠に滅びることのない宝、仏の心、大いなる命の輝きを感じ取ることが出来るのです。
この命の輝きに目覚めることこそ、この世を生きてゆくまことの宝にほかなりません。
横田南嶺