なんどでも立ち上がる
大学総長として卒業式に臨むようになってもう六年にもなります。
学生さんは四年で卒業ですが、私はまだ卒業にはなりません。
大学に行くと、学長、学園長、事務局からいろいろの報告を受けます。
大学の現状はというと、一部の大学を除くと、とても深刻な状況にあります。
いろいろと課題が多いのだと痛感させられます。
花園大学の総長は、完全な名誉職で、運営に関して何の力も持たないので、報告を聞くだけなのですが、それでも気にかかるものです。
花園大学は、建学の精神が「禅的仏教精神による人格の陶冶」となっていまして、臨済禅を学ぶ学園から始まっています。
理事長は、臨済宗妙心寺派の宗務総長が務めています。
後援会の役員も僧職の方が多いのです。
入学式や卒業式の舞台上には、法衣を着た僧侶がずらりと並びます。
開会には、まず三帰依文を唱えて、総長がご本尊に礼拝します。
それから学位記授与が行われます。
これは学長が行ってくれます。
学長は、磯田文雄氏であり、お坊さんではありません。
学位記授与のあとに磯田学長の式辞があります。
磯田学長の式辞は、いつも丁寧なもので、私も毎回拝聴して感銘を受けています。
一部を紹介します。
卒業の祝いを述べられた後に、
「皆さんの学生生活は、これまでの先輩たちとは大きく異なるものとなりました。
「人類の歴史の大波」 にのみ込まれてしまったのです。
まず、2020 年初頭にコロナウイルス感染症が広がり、 それがまん延する中で大半の学生生活を送られました。」
とコロナ禍のことに触れていました。
更に、「昨年2月に起こったロシアのウクライナ侵攻は1年経った今も続いています。
この戦争とコロナ禍により私たちの全く知らない新しい世界が眼前に聳え立っています。
その新しい世界の出現に驚きと恐怖を感じざるを得ません。」
と戦争の問題にも触れられました。
そして政治学者の佐々木毅先生の言葉を引用されていました。
「人間は自らの経験に暗黙に寄りかかりながら事態の変化に対応して生きているが、 自らの経験が所詮は「自らの」経験に過ぎず、人類の歴史の経験の大きさに比べていかに間尺の違うもの ー「想定外なもの」ーなのかを思い知るに至って、寄りかかれるものを失い、手の施しようがない姿で歴史の大波にのみ込まれてしまう」。
磯田学長は、「人類の歴史は人ひとりの経験をはるかに超えています」と述べておられました。
それだからこそ、私たちは、学問すること、学ぶことが大切だと訴えておられました。
「このような時代に当たって私は皆さんに言いたい。
困ったことがあったら書を読もう。学問をしよう。
学問は研究を通してそれまでの命題を批判的に検討し、新しい枠組みを提案する普遍性を有しています。
「自らの経験」 を超える命題であればあるほど、 学問との親和性が強くなります。
大学で学んだ書を引っ張り出して読み直してください。
また、 新しい学問を紐解いてください。
迂遠なようですが、学問が皆さんをこの「人類の歴史の大波」から解放してくれます。
学問がいつまでも皆さんを守ってくれることを祈っています。」
という言葉は心に響きました。
そして更に、
「 学問をするため、 そして、 社会で活動するため、 皆さんにお願いしたいことがあります。」として、
「 それは「書くこと」を一生涯学び続けていただきたいということです。」と話してくださいました。
「書くことは人間の活動の基本です。 是非、書くことを学び続けてください。」
確かに、文章に書くことで、考えがまとまります。
人に伝える力もつくものであります。
私もこうして毎日文章を書いているのもよいことなのだと思いました。
そして学長は、二十一世紀になって「人々は民主主義そのものに疑念を抱くように」なったと問題提起されましたが、最後には、
「私は人を信じます。 特に若者の力を信じています。 皆さん、苦難を恐れず、際限のない社会の「大海」 へ漕ぎ出していってください。」と力強く結ばれていました。
格調の高い式辞のあと、私の祝辞となります。
私はお祝いの言葉を述べて、学長の式辞に触れました。
学長が「学問の大切さ」と「書くことの大切さ」を説かれていましたが、私は長年修行の世界にいて、かくことはかくことでも、恥をかくことだけを学んできましたと述べました。
卒業式では、学生さんたちは、学長の式辞、総長の祝辞、理事長の祝辞とそのたびごとに、起立し、また椅子に坐り、また起立しまた坐るということを何度も繰り返します。
そのことに触れて語りました。
今日は何度もこうして椅子から立ち上がり、また坐り、また立ち上がりということを繰り返します。
皆さんにとっては、何でもないようなこととお思いかもしれませんが、この椅子から立ち上がるということは実に素晴らしいことです。
人間の人間たる所以は、なんといってもこの二本の足で立ち上がったところにあります。
そこにこそ自立があります。
立ち上がるということは、大地を踏みしめてこそ立ち上がれるのであります。
大地をしっかり踏みしめて、二本の足に力を入れて立つのであります。
大地があるからこそ、立ち上がれる、この意味を考えて欲しいと思います。
ささえてくれるものがないと立ち上がれないのです。
私は、長年の禅の修行の世界に身を置いてきました。
修行を始めようとした中学生の頃に老師からいただいた言葉があります。
それは
すべってもころんでも登れ富士の山
という言葉でした。
たしかに修行の間はすべってころんでの連続でした。
学長が「書くこと」の大切さを説かれましたが、私は実に恥を書くことの連続でした。
しかし、そのたびに立ち上ってきました。
転ぶということは、すでに大地が支えてくれています。
その大地の支えによって立つのです。
皆さんを支えてくれているものは、大地だけではありません。
今日まで育ててくれた両親や家族、仲間などが支えてくれたはずなのです。
そのささえてくれているものをしっかりと自覚して、立ち上がるのです。
コロナ禍三年を終え新たな出発の年に社会に旅立つ皆さんには、前途洋々たる将来を願いますが、転ぶことも恥をかくこともあるのがお互いの人生です。
転んだら立ち上がる、なんども立ち上がる、大地に支えられ、親や家族や仲間にささえられていることを思って、立ち上がる気概を持って欲しいと願います。
と話をしたのでした。
若い方々の門出を送るのはうれしく有り難いことであります。
横田南嶺