もっと弱くなる
私のふるさと和歌山県新宮市には、熊野速玉大社がございます。
熊野三山のひとつです。
この速玉大社の門前で私は生まれ育ちました。
速玉大社の分社に、沖縄の沖宮があります。
その沖宮さまが中心となってシンポジウムが開催されたのでした。
そのパネリストとして招かれたのでした。
昨年私のふるさと新宮市の速玉大社の宮司さま、沖縄の沖宮の宮司さまがわざわざ円覚寺までお越しくださって、頼まれたのでした。
これは行かざるをえないことになったのでした。
依頼書に書かれていたのは、
この会のテーマは、三つの祈りなのだそうです。
「怨親平等(人類の有史以来続く恩讐で苦しむ御霊を和合成仏させその輪廻を断ち切る)」
「自立(人それぞれが持って生まれた世の為人の為に尽くすべき使命)」
「和魂平安(多様性を尊重し、共存する世界平和)」に通じる船越義珍・山中貞則両先生の人生を通して、今後沖縄に課せられた果たすべき使命 「沖縄道」を提言するシンポジウムということでありました。
私の役目は、この「怨親平等」について語るということでした。
このシンポジウムに出るにあたって船越義珍先生について勉強してみました。
円覚寺には、この船越義珍先生の碑が建っています。
「空手に先手なし」という朝比奈老師の書が刻まれているのです。
船越義珍先生は1868年明治元年のお生まれです。
1957年昭和32年にお亡くなりになっていますので、数え年で九十歳という長命でありました。
沖縄県出身の空手家であり、初めて空手を本土に紹介した一人です。
松濤館流の創始者であります。
もともと唐手(とうで)と呼ばれていたのだそうですが、船越先生や、当時円覚寺の管長だった古川尭道老師などの参同を得て、空手というようになっていったのだそうです。
般若心経の空の教えにも通じるというのであります。
船越先生の『空手道一路』という本を読んでみますと、船越先生には、この空の教えも深く学ばれていたことが分かりました。
松村 宗棍という沖縄の武術家の話が出ていました。藩主の指南役も務めていた方です。
この武術家が、空手の達人と試合をして一手もまじえずに勝ったという話であります。
空手に自信のある者が挑んだのだそうですが、飛びかかろうとすると、一喝されてその場に平伏してしまったのでした。
そのあとこの松村氏が、語っているのであります。
この書物は船越先生が書かれたものなので、実際には船越先生のお考えが入っていると思います。
「先生の眼が恐ろしくて、顔が恐ろしくてまったく敵意というのがケシ飛んでしまいました」という空手家に対して、
「そうかもしれん。 お前はこの勝負に勝とうと思っていた。俺は道を楽しんで死のうと思っていたのだ。ただそれだけの違いだ。」
と語っています。
しかし、「昨日、お前に仕合を申込まれるまでは、じつはいろいろと煩悶していた、」というのです、
「ところがお前と仕合することに定めてから、その煩悶は不思議と消えてしまった。
思えば、今まではあまり物事に執着し過ぎていたようだ。
空手の技に、空手の指南に、そして上様の御機嫌に執着した。自分の境遇に執着した。
しかし、人そのものが元来五薀五行の仮りの姿なのだ。
命脈が絶えればたちまち地水火風空に帰してしまう。
色即是空と気がついてみれば、自分というものもなければ、他人というものもない。
我も人も、草も木も、天地と同じく宇宙の精気の凝ったものだ。
宇宙の精気には生もない、死もない。物に執着がなければ一切の障礙はなくなってしまう。
ただ、それだけのことさ」
と語っているのです。
『空手道一路』には、空手に縁のない私にも学ぶことが沢山ありました。
船越先生の空手道六訓に「慢心するな、独善に驕るな」というのがあります。
船越先生は、
「肩肘をいからし、大道狭しと潤歩して、天下の豪傑を売りものにしているような者は、たとえそれが本当に強くても、人はその人を心から尊敬はしないだろう。
まして、大して強くもないのに強そうに振舞う程滑稽なものはない。
しかし、強そうな格好をするのは、大抵こういった馳け出しに多いのである。
そして品位を傷つけ、体面を汚し、評判を悪くするのも、大体、こういう手合いなのである。
「ホウ、あの人が空手をやっているんですってねェ」
といわれるようになれば、それはそろそろ本物に近いといっていいかもしれない。」と書かれています。
これなどは、禅の修行にも通じます。
すこし禅の修行でもすると、坐禅をしていることを誇ってしまうことがあります。
「あの人は禅をやっていたのか」と後から思われるようになると本物に近いのでしょう。
また「本当に空手道を修得した人は、女であれ男であれ、決して世間で心配するような荒っぽいものではないのである。」とも書かれています。
そして「これは、私がよく同門の若い諸君に話をしていることだが、
「強くなるんでなしに、うんと弱くなって貰いたい」
というのである。」
と書かれているのです。
どういうことかというと、
「自分で自分の弱さを知っている人は、どんな時にも平静でいられる。
本当の勇気は、本当の弱虫でなければもつことはできない。
なる程、技を練り拳を愛するということは空手修行者にとって必要なことである。
しかしこれも、じつは自分の弱さを知るための修行だということを忘れないで貰いたいのである。」
と説かれていて、これなどは実に奥深い教えであります。
いろいろとご縁をいただくことによって、勉強させてもらえます。
「空手に先手なし」という石碑のこともよく理解できたのでした。
横田南嶺