いきいきと生きる – 活潑潑地 –
一、「無位の真人」、自己の素晴らしさに目覚めること
二、「随処に主と作る」、どんなところでも主体性を持つこと
三、「活潑潑地」、いきいきと生きること
の三つにまとめて書いています。
「活潑潑地」という言葉は難しい字ですが、『広辞苑』にも出ているものです。
『広辞苑』には、「かっぱつはっち」と読まれていて、意味は、「極めて勢いのよいさま。気力がみちみちて活動してやまぬさま。」と解説されています。
私どもでは、「かっぱつぱっち」と読んでいます。
かつて岩波文庫の『禅林句集』を編集した時にも、著者の足立大進老師にも確認して、「かっぱつぱっち」とルビをつけたのでした。
『禅学大辞典』には、「活鱍鱍地・活撥撥地・活潑潑地」というように、「發」の字に、さかなへん、てへん、さんずいが着いた三種類の文字が書かれています。
意味はというと、
「生きのよいさま。ぴちぴち躍り跳ねるさま。禅者の溌剌として活気に満ちあふれたはたらきのさまを、魚のぴちぴちと水間に躍るさまにたとえていう。地は助詞。」と説明されています。
さかなへんの「鱍」という字を諸橋轍次先生の『大漢和辞典』で調べると、「魚のおよぐさま、又、魚の躍るさま」という意味であります。
「鱍鱍」という用例があって、「魚の元気よく泳ぐさまをいう」と書かれています。
魚がピチピチと躍るような躍動感がある言葉だと分かります。
『臨済録』には、この「活鱍鱍地」が二回使われています。
岩波文庫の『臨済録』には、原文にはさかなへんの「活鱍鱍地」が使われており、読み下し文には、さんずいの「活潑潑地」が使われています。
使われている箇所の現代語訳を参照しますと、
「君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている[君たち] その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。」
「皆の衆、君たちは、頭陀袋と糞袋を担いで脇みちへ走りまわり、仏を求めたり法を求めたりしているが、現に今そのように求めまわっている当体を君たちは知っているのか。
それはぴちぴちと躍動していながら、実は存在の根拠をもたぬ。
手で掻き集めることもできず、払い散らすこともできない。
求めようとすれば却って遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳いっぱいに聞こえてくる。
もしこれが信じきれないならば、一生の修行も無駄骨折りだ。」
と説かれています。
臨済禅師が「無位の真人」として説かれた素晴らしい本来の自己というのは、実にいきいきとしたものであることが説かれているのです。
その逆が「萎萎随随地」であります。
『臨済録』には、
「道流、汝、若し如法ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。萎萎随随地ならば、即ち、得(よ)からず。」とあります。
岩波文庫の現代語訳を参照しますと、
「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ。
人の言いなりなぐずでは駄目だ。」というところです。
このあとに、
「ひびの入った陶器には醍醐を貯えておけないのと同じだ。
大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ」と説かれているのです。
「萎萎随随地」は「他人に盲従するさま」と註釈に説かれています。
「萎萎随随地」の「萎」という字は、「なえる。しぼむ。しおれる。草木がぐったりする」という意味であります。
萎縮するという時につかう萎であります。
萎縮するというのは、「なえしなびてちぢむこと。元気がなくなること。相手の勢いに圧倒されてちぢこまること。」と『広辞苑』に説かれています。
臨済禅師がこの「活潑潑地」を初めて説かれたかというと、そうではなく、保唐寺の無住禅師がすでに「活潑潑」という言葉を用いられています。
小川隆先生の『禅思想史講義』には次の言葉が紹介されています。
「それがしの禅は、心が沈むことも浮かぶこともなく、流れることも注ぎ込むこともない。
それでいて実地の用きがある。その用きには動と静の別もなく、汚れと清らかの別もなく、是と非の別もない。「活鱍鱍として、一切時中総て是れ禅なり」、ピチピチとして、あらゆる時がすべて禅なのである。」
というものです。
「活鱍鱍として、一切時中総て是れ禅なり」という言葉などは、後の馬祖禅師などにも大きな影響があったように感じます。
臨済禅師が無住禅師の言葉をご存じであったかどうか分かりませんが、大いに通じるところがあるものです。
「活鱍鱍地」という言葉に触れると坂村真民先生の詩を思います。
生きているからには
生きているからには
しょぼしょぼとした
目なんかせず
生き生きした
魚の目のように
いつも光っていようではないか
生きているからには
くよくよした
泣きごとなんか言わず
春の鳥のように
空に向かって
明るい歌をうたおうではないか
生きているからには
できるだけ世のため人のため
体を使い
あの世へ行った時
後悔しないように
発奮努力しようではないか
という詩であります。
いきいきとして魚の目のように光っていたいものです。
しょぼんと萎れていてはなりません。
いきいき生きていれば生きるも死ぬも自由自在となれるのでしょう。
横田南嶺