そのまま仏であるとはいっても…
「坐禅して静かに心を澄ますことによって、妄念の霧が消え、無明の雲が晴れて、本来無一物、何もないところに真実の自己を発見することができるのである。その真実の自己に目覚めて、明るく正しく逞しく生きてゆくことが禅というものである。
坐って静かに考え、心を澄まし、何も考えない赤子のような無心の境地に入ることを、坐禅というのである。」
というものです。
とても理解しやすいものであります。
初めて坐禅しようとする者にとってはよい道筋を示してくれています。
しかし、禅の歴史においては、このような教えは否定されていったのでした。
ただいま修行道場では、小川隆先生の『禅思想史講義』を皆で輪読して勉強しています。
この本は何度も読んだ本ですが、改めて皆で読んでいるいろいろと再確認できるものであります。
達磨大師によって中国に伝えられた禅は、初唐の則天武后の時代に、五祖の弟子神秀によって盛大になりました。
この系統を北宗と言っています。
北宗の教えを小川先生は、次のようにまとめてくれています。
(1)各人の内面には「仏」としての本質ー仏性―がもとから完善な形で実在している。
(2) しかし、現実には、妄念・煩悩に覆いかくされて、それが見えなくなっている。
(3) したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕われ出てくる。
というものです。
先の無文老師の説かれたことに通じるものです。
神秀という禅僧は、我々が『無門関』などで学ぶ場合には、慧能禅師と対比されて、五祖の法を受け継ぐことができなかった、何か自信の無い僧として登場しています。
しかし実際には、小川先生の本にも、「初唐の時代、禅宗がはじめて世に出たとき、五祖の正統の後継者であり、「東山法門」の正統の代表者であったのは、まぎれもなく、神秀その人だったのでした」と書かれています。
しかし、後に神会という禅僧によって、六祖のもとから慧能禅師が出られて、この慧能禅師こそが達磨の六代目であって、神秀ではないと主張したのでした。
神秀の系統を「北宗」、慧能の系統を「南宗」と呼ぶようになりました。
北宗と南宗の違いを小川先生の本で参照してみましょう。
「「北宗」において仏性は、雲や霧の奥におおいかくされた、輝く日輪のようなものでした。
そこにおいては、実物としての迷い(雲霧)を禅定によって取り除いてゆき、最後にその奥で秘かに輝いている実物としての悟り(太陽)を顕現せしめる、そんな実物的なイメージが濃厚でした。
実物として強固に存在する煩悩を除いてゆくのですから、そこには物理的な作業の持続が必要であり、実物を処理してゆく持続的な作業には、当然、時間の経過と工程の進捗が必要になる――そこに漸進的禅定主義という、いわば地道でまじめな修行の原理が出てくる理由がありました。
しかし、神会から看れば、太陽も浮き雲もーつまり、悟りも迷いも 自己の本質ではありません。
それは、いわば、大空という無限大のスクリーンの上を行き来する個別の映像にすぎないのです。
ここで必要なのは、迷いの映像を排除することでも、悟りの映像を固定することでもなく、それらが映し出されているスクリーンそのものに自ら気づくことなのです。」
というものなのです。
「いかなる映像が映し出されようとー絶世の美女が映ろうが非道な極悪人が映ろうがースクリーンそのものは常に一面の空白である。
そのスクリーンの空白こそが自己の本質なのであって、そこに映し出された美女と悪人の違いはまるで問題じゃない、というわけです。」
という喩えは分かりやすいものです。
またこれは鏡の喩えとして、日本の盤珪禅師などもよく用いられたものでもありました。
禅文化研究所発行の『般若心経』には、山田無文老師が次のように提唱されています。
引用しますと、般若心経の「不生不滅、不垢不浄、不増不減」を解説されて、
「盤珪禅師は、ここのところを次のように示しておられます。
「人間の本性というものは本来、鏡のように清浄なものじゃ。 鏡の中には何もない。物が前に来れば映るし、物が去れば消えるだけだ。しかも後には何も残りはせん。
物が映ったからといって、鏡の中に生じたものは何もないし、去ったからといって、鏡の中に滅したものは何もない。
これを、『生ぜず滅せず』と言う。 きたない犬の糞を映したからといって、鏡の中は汚れはせん。きれいな花を映したからといって、鏡の中はきれいにはならん。これを、『垢れず浄からず』と言う。
鏡の中に物が映ったからといって、鏡の目方は増えやせん。物が去ったからといって、鏡の目方は減りはせん。これを、『増さず減らさず』と言う。
般若心経に不生不滅、不垢不浄 不増不減とあるのは、まったくこの鏡のように清浄無垢な人間の本性をうたわれたものじゃ」
というのであります。
南宗の系統からはやがて馬祖禅師が出られて、更にこの教えは発展しました。
馬祖禅師は、「自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい」と示されたのでした。
煩悩を取り除こうとすることなど、余計な造作だというのであります。
そういう教えとなってゆきながらも、実際の修行の上では、やはり、はじめに『坐禅のすすめ』にある無文老師のように、「坐禅して静かに心を澄ますことによって、妄念の霧が消え、無明の雲が晴れて、本来無一物、何もないところに真実の自己を発見することができる」という教えも説かれているのです。
むしろこういう修行を通して、初めて心が本来仏であったと気がつくことができるのだと言えます。
心がそのまま仏であるとはいっても、なかなか難しいのであります。
横田南嶺