Zen Eating – 食べる瞑想 –
以前紹介したように、ももえさんは、この度『食べる瞑想 Zen Eatingのすすめ』という本を出版されました。
ももえさんは、わざわざ新刊の本を届けに来てくださったのでした。
二月三日のことでありました。
そのことについては、二月八日の管長日記でご紹介したのでした。
そこでこのたび実際にZen Eatingの講習をしていただいたのです。
二年ほど前に一度Zen Eatingの講習を行ってもらったことがありました。
二年前ともなると、すでにこの講習を受けた者は、修行道場でも半分ほどで、半ばの者は、全く初めてとなるのです。
ももえさんがどういう方かというと、『Zen Eating』の本の著者略歴には、
「Zen Eating代表、 ウェルビーイング顧問、中央大学客員研究員。
1991年生まれ。東京、 エジプト、 山形育ち。
ライフミッションは、命いっぱい生ききること。
中央大学で比較思想、 比較幸福、 禅と日本文化などを研究。
大学卒業後、大手リゾートに入社。
ウェルネス事業に携わる。
退職後、 2年間インドに移住。
国立のヨガの学校へ通い、 瞑想の先生の家に住み込みで瞑想修行を行う。
帰国後は、食に関する事業を行う IT企業で勤務する傍ら、ヘルシー和食の外国人向け料理教室やカフェの経営に携わる。
その後、 瞑想を土台にした 「心がととのう幸せな食べ方 (Zen Eating®)」を編み出し、起業。
忙しく働く現代人に合わせた、食べる瞑想で年間1000名の心の安らぎに貢献し、「食べ方が変化するだけでなく、人生が劇的に変わる」と評判に。
個人向けにオンラインで始めたZen Eatingのワークショップは、口コミだけで国内外30カ国に顧客を広げ、 アメリカ、イギリス、シンガポールを始めとしたグローバル企業や、国内外の大手企業、大学、国際カンファレンスからも実施依頼があり、幅広い支持を得ている。
また、ウェルビーイングやマインドフルネスをテーマにした講演、研修、セミナーにも取り組んでいる。」
と書かれている通りなのです。
食事というと、修行道場では厳格な作法が定められています。
いろんなお経を読んでいるのですが、その中に、五観の偈というのがあります。
これを毎回唱えているのです。
どんな気持ちでいただくのかということです。
一つには、功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つには、己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
三つには、心を防ぎ過貪等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。
四つには、正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。五つには、道行を成ぜんが為にまさにこの食(じき)を受くべし。
というものです。
これをその通りのこころでしっかり受けとめていただいたなら、毎回の食事がそのままZen Eatingになるはずなのです。
『Zen Eating』には五観の偈の現代語訳が書かれています。
今回ももえさんがそのコピーをお持ちくださっていて 皆で唱和したのでした。
引用させてもらいます。
1、目の前の食べ物は、全宇宙、地球、空、数えきれないほどの生き物たち、多くの努力と愛ある働きによってもたらされた恵みです。
2,この食べ物を受けるにふさわしいよう、感謝して食べ、生きることができますように。
3,むさぼりなどの心の働きに気付き、変えていくことができますように。そうした不健全な心を離れて食事に専念できますように。
4,食事は心身を保つために必要な薬です。味や量にこだわらず、地球を癒やし、守るような食べ方を実践し、慈悲の心を生かすことができますように。
5,自分の道をまっとうし、命あるものの役に立てるように、この食べ物をいただきます。
唱え終えたら、目を閉じて一度呼吸をして感謝を込めて食べ始めましょう。」
というものなのです。
この通りの気持ちでいただくことができればいいのですが、普段はこの五観の偈でもまるで呪文のように唱えてしまっていて、内容を考えることが少ないのであります。
昨年修行道場に入った者も、こういう意味があったと初めて気がついたと言っていたほどなのです。
実際の講習では、食事を目の前にして、まず自分の体を動かすことから始めました。
手をすりあわせて、その手であごに触れます。
すると頷がゆるむのだそうです。
さらに喉、食道、お腹のあたりまで触れてゆきます。
自分は今どれくらい食べたいのかを自分のお腹に聞いてからご飯をよそうというのです。
そうしておいて、まず一つ一つの器を手にとって、その香りをかんじます。
お米はお米の良い匂い、お味噌汁はお味噌のいい香りがします。
たくあんもまたなんとも言えない風味です。
そしてようやくご飯を口にひとくちだけ入れます。
すぐに噛んではいけないのです。
まず舌の上において観察します。
一粒一粒を感じるのです。
それから一回噛んで間を取ります。
また噛んでは間を取ります。
間を取っているときには箸を机の上において待つのです。
更にまた噛んでは間を取ります。
これを繰り返すのです。
そうしていただくと、お米だけで、なんとすばらしい食べ物をいただいているのか身にしみることができます。
普段と違って、お米の甘みをより一層感じることができました。
それから更にももえさんの言葉によって瞑想を深めてゆきます。
この一粒のお米がどうしてここに来たのかを想像します。
はじめは一粒の玄米でした。
その玄米ももとはというと、田んぼにいたでしょう。
幸い修行道場では昨年田植えも稲刈りも体験してきましたので、実感をもって受けとめられると思いました。
更にいつもよりも少なく一口を口の中にいれて、ゆっくりと一粒一粒のいのちを感じながら、生き物としてお互い出逢っていることを感じます。
お米のいのち、お野菜のいのち、どれもが、この大地あればこそです。
空に雲が浮かんで雨を降らせてくれたおかげなのです。
雨は大地をうるおして、それが植物を育てているのです。
そんな大地や雲のはたらきというのは、地球ができて以来四六億年経ってこそなのです。
四六億年の命の結晶が今目の前にあると思っていただくのです。
そしてまた自分も四六億年の命をいただいているのですから、四六億年の命の結晶なのです。
それから更に食事をいただくときに、自分の内側に入って来て、どの辺で自分と一体になるのか考えましょうと仰ってくださいました。
こういうことはあまり考えたことがありません。
食べる前、目の前にある物は、自分ではない物です。
口の中に入っているときも、まだ自分ではないように感じます。
喉に入ると自分になるのか、胃のあたりでなるのか、腸で吸収されて自分と一体になるのか、不思議なものであります。
そこでももえさんが仰った言葉が、今回一番印象に残りました。
「私が消化を忘れても、消化は私を忘れたことはない」
というのであります。
食べて消化することなど、すっかり忘れていても消化するというはたらきは私を見捨てることなく営み続けてくれています。
呼吸も同じと言われました。
私が呼吸を忘れても、呼吸が私を忘れることはないのです。
食べ終わると、器に触れて、この器のおかげでいただくことができたと感謝しました。
修行道場の場合は各自持鉢という器を持っていますので、それを手に取って触れていました。
恥ずかしながら、この持鉢に感謝ということは今まで少なかったと反省しました。
そうして、自分の食事を成り立たせてくれた大いなるつながりに感謝して終わったのでした。
一時間半ほどでしたが、終わった後は、ずっと長い間坐禅していたような感じがして、有り難く感謝しました。
横田南嶺