一遍さんと真民さんに学ぶ
そのときの題が「一遍さんと真民さんに学ぶ」というものでした。
「一遍さん、真民さん」と両方とも「さん付け」であるところに意味があります。
特別展には、
真民先生の「詩記359」(昭和42年12月12日)から
西行さん
真民さん
良寛さん
一遍さん
そう呼んで下さるようになりたい
こうした人たちの仲間に加えてもらいたい
という言葉と、
「詩国67号」(昭和43年1月)から
ねがい
みなさん
これから
わたしを
しんみんさんと
呼んでください
西行さん
良寛さんと
呼ぶように
さかむらも
いりません
真民さんだけで
通ってゆく
そういう人間に
なりたくねがい
懸命に一途に
進んでゆく
つもりです
という詩が展示されていました。
西澤孝一坂村真民記念館館長は、
「昭和42年12月18日のNHKテレビ 「宗教の時間―西行法師」に、一緒に出演してほしいと紀野先生から手紙が来て、それに対する返事の中で 「テレビで紹介して下さる時には、真民先生ではなく、真民さんと言ってください。 西行さん、良寛さん、山頭火さんそういう呼び方をして頂きたいのです。」と書いている。
これ以後真民は、周りの方に、 「しんみんさん」と呼んでくださいと、呼びかけている。
学校の先生をしていたので、その意味から 「坂村先生」、「真民先生」 と呼ぶ人が多いのだが、真民にとっては、良寛さん、 一遍さん、と親しみを込めて呼ばれる人に、なりたいと思っていたのです。」
と解説が書かれていました。
私も講演のはじめに、
呼び名
サカムラ先生
なんて言われると
隠れてしまいたくなる
サカムラさん
シンミン先生
これもよくない
シンミンさんと
呼んで下さい
鳥たち
虫たち
花たちも
皆そう呼んでくれますから
それが一番うれしいんです
という真民先生の詩を紹介しました。
そんな次第で、あえて時宗の開祖としての一遍上人ではなく、一遍さん、坂村真民先生ではなく、真民さんの生き方を学ぶとして講演をしたのでした。
我々禅宗でも一流の方は、達磨さん、一休さん、良寛さんとさん付けで呼ばれているのです。
そう言って講演を始めながらも、やはり普段真民先生とお呼びしているので、つい「真民先生」となってしまったのでした。
宗教とは
宗教とは
何を信ずるということではなく
どう生き
どう死ぬかと
いうことだ
それがわからないと
いつまでたっても
本ものになれず
いきいきした
筋金が入ってこない
という詩がありますように、真民先生にとっては、何を信じるかということよりも、どう生きるかということが問題なのでありました。
思えば前回坂村真民記念館で講演したのは、二〇二〇年の二月二二日のことでした。
あの講演のことは忘れません。
記念館の開館八周年記念で講演したのでした。
二〇二〇年の二月は、まだそんなにコロナのことを気にせずに四国にゆく事ができました。
まだマスクをしている人も多く見かけなかったのでした。
しかし、あの講演のあと、総ての講演、法話が中止もしくは延期となったのでした。
それから長い三年でありました。
今回愛媛に行くと、空港も大勢の人でありました。
町には、多くの観光客があふれていました。
コロナ禍の三年が過ぎて、新たな一歩を歩み出すときに来たのだと感じました。
また坂村真民記念館も、昨年で十周年を迎えて、この度は十一周年と新たな一歩を進めるときだと感じました。
そんなときにあたって一遍さんを学ぶというのは、まさにふさわしいと思ったのです。
講演会でも
つねに前進
すべて
とどまると
くさる
このおそろしさを
知ろう
つねに前進
つねに一歩
空也は左足を出し
一遍は右足を出している
あの姿を
拝してゆこう
という詩を紹介しました。
講演にあたって、改めて坂村真民全詩集を読み返しました。
そこから一遍さんにまつわる詩、講演で紹介したい詩を選びました。
「一遍から学びとるもの」という詩は、もっとも伝えたい詩でありました。
一遍から学びとるもの
それはリンリンとした
ほとけのいのちであり
いぶきであり
捨てて捨てて
捨てきった
ナムアミダブツである
彼が称名すれば
風となり
雲となり
山河草木こぞって
ナムアミダブツをとなえる
ああこの生々溌々のひびきよ
われを生かし
われを導く霊音よ
一遍さんには、
「よろず生きとしいけるもの 山河草木 ふく風たつ浪の音までも念仏ならずといふことなし」
という言葉があります。
真民先生は、その著『一遍上人語録 捨て果てて』の中で、
「これはわたしが一番好きな言葉である。
あぁ一遍上人は詩人だなあ、と、この言葉を誦するたびに思う。
本当の詩人とは、このような人をいうのである。
こういう人が日本国中にふえてきたら、どんなに明るく、どんなに楽しく、どんなに毎日が生き生きしていることであろう。
お釈迦さまがお説きになった教えそのままを受け継いでいる方だと、わたしは救われる思いがする。」
と書かれています。
講演の最後には、
この果てしない道を
大いなる人に
導かれて
この果てしない道を
一筋に歩いてゆこう
捨てて
捨てて
軽くなり
鳥のように
どんなに苦しいところでも
懸命に越えてゆこう
の詩を紹介しました。
一遍さん、真民さんという大いなる人に導かれて、この果てしない道を歩いてゆこうと話を終えさせてもらったのでした。
横田南嶺