岩屋寺
前の日に愛媛に入って、まずは道後にある宝厳寺にお参りしました。
昨日の管長日記にも書きましたように、ここは坂村真民先生のお墓のあるお寺であります。
ちょうど十年前の八月に、火災の為に、本堂書院、そして一遍上人像もすべて燃えてしまったのでした。
全焼してから三年で、見事に復興されたのでした。
復興されてからでも七年になります。
十一年前にお参りした時にお目にかかった和尚様は、残念ながら火災による心労などが重なって、お亡くなりになってしまいました。
今のご住職がその後を引き継いでおられます。
先代のご住職がご存命の頃は、看護師をなさっていたのだそうですが、本堂再建の途中にお亡くなりになった住職の遺志を受け継いで出家され、本山の遊行寺で修行をなされて、住職に就任されたのでした。
愛媛に行くと、必ず宝厳寺にお参りしています。
総てが燃えてしまったのですが、山門だけが昔の姿を残しています。
銀杏の木のおかげで、山門だけは燃えなかったのでした。
その銀杏の木も半分ほど黒焦げになってしまっていて、もう枯れてしまうかと思われましたが、銀杏の生命力は強くて、すっかり元気になっているのです。
宝厳寺のお墓参りには、西澤真美子さんもお越しになってくださいました。
そのあと、白川密成さんのお寺を訪ねました。
白川さんとはクラブハウスでお話したことがありました。
そんなご縁があって、一度お参りしたいと思っていたのでした。
白川さんのお寺は栄福寺、四国八十八カ所札所のひとつであります。
白川さんとは、『不要不急』という本でも一緒に執筆させてもらっています。
二〇二一年一〇月九日の第二七六回の管長日記「どこから来たのか?」でも、白川さんの言葉を紹介したことがあります。
白川さんにご挨拶した後に、岩屋寺にお参りしてきました。
岩屋寺は、弘法大師ゆかりの霊場であります。
名前の通り、大きな岩があるお寺なのであります。
駐車場から二十分ほど登ってゆくと、大師堂とご本堂にお参りすることができます。
それも大きな岩のそばに建っています。
一遍上人は、このお寺に参籠されています。
一遍上人は延応元年(1239)、伊予(愛媛県松山市)の豪族である河野家の次男として生まれました。
十歳の時、母を亡くし、父の命を受けて仏門に入りました。
十三歳になると、九州で聖達上人、華台上人(共に浄土宗西山派)のもとで修行されました。
大宰府の聖達上人のもとで12年間学んだのでしたが、父の訃報を受けて一度故郷に帰られます。
半分は僧侶であり、半分は俗人という半僧半俗の暮らしをなさっていました。
このような生活を続けていましたが、親類間のいざこざがもとで、一遍上人が襲撃されるという事もありました。
そんな争いもあって、一遍上人は再び家を出て、信州(長野県長野市)の善光寺を訪ねました。
ここで「二河白道図」を写して自分の本尊とされたのでした。
二河白道図というのは、『広辞苑』によると
「〔仏〕善導が「観経疏散善義」で説いた比喩。
おそろしい火・水の二河に挟まれた細い白道を、西方浄土に到る道にたとえたもの。
火の河は衆生の瞋恚、水の河は衆生の貪愛、白道は浄土往生を願う清浄の信心を表す。」
という絵であります。
再び一遍上人は、故郷へ戻り、窪寺という閑室にこもり一人念仏三昧の暮らしを三年ほどなされていました。
窪寺は今の松山市内になりますが、ただいま彼岸花の群生地として知られています。
当時の建物などは残っておらずに、今は一遍上人窪寺遺跡という石碑が建っているのみであります。
数年前に、西澤孝一坂村真民記念館館長にご案内していただいたことがありました。
一遍上人は更に旅をなさって、久万高原にある岩屋寺におこもりをされていのでした。
この岩屋寺に半年ほどおこもりになって、それから四天王寺、高野山を回って熊野に向かうのでありました。
その岩屋寺を今回お参りすることができました。
昨年、途中の大師堂と本堂までお参りすることができたのですが、その奥の院までお参りすることはできなかったのでした。
本堂の脇にも階段を登って岩屋に入ることができますが、もっとその奥までお参りしたいと思いながら、時間の都合上断念せざるを得なかったのでした。
そこで今回なんとかしてその奥の院までお参りしたいと思い、その願いが実現することとなりました。
大師堂の奥に、仁王門があり、そこから入ってゆきます。
あらかじめ納経所で、奥の院の鍵を預かります。
そして不動明王の三十六童子のお札をいただきます。
仁王門から山道を登っていくと、そのところどころに三十六童子がお祀りされていて、そこにお札をお供えして登ってゆくのです。
ずっと登ってゆくと大きな赤い不動明王立像が立っていて、その脇に門があります。
納経所で預かった鍵で扉を開けて入ります。
逼割禅定(せりわりぜんじょう)という巨岩を真っ二つに割ったような狭路を通り抜けてゆきます。
そこからは、絶壁を鎖にすがりついてよじ登り、更にはしごで登った先に白山権現がお祀りされています。
そこからの眺めは素晴らしいのですが、狭いところなので、足がすくみそうになりました。
国宝の一遍上人絵伝にも岩屋寺にこもられた様子が描かれています。
なんでも一遍上人絵伝のなかで、唯一その当時の情景が残っているのが、この岩屋寺なのだそうです。
ほかの絵に描かれている建物などは何も残っていないのです。
窪寺のお堂も今はありません。
岩屋寺の岩屋だけは、今も変わることのない景色なのであります。
「ああ、ここで一遍上人はおこもりになったのだ」と思うと感慨無量でありました。
岩屋寺に向かう途中で、自転車で四国遍路をされている青年とすれ違いました。
今の時代に感心だなと思って通り過ぎました。
岩屋寺にお参りしていると、その青年と出会うことができました。
なんでも大学生とかで、自転車で遍路をされているというのです。
少しお話をさせてもらって、私たちは、仁王門から奥の院を目指しました。
青年は大師堂と本堂にお参りして次の札所へ向かいました。
すると、なんと私たちの帰り道にもその青年と出会ったのでした。
車を止めて少しまたお話しました。
岩屋寺へ向かう道中と、岩屋寺と、そしてその帰り道とで、一日に三度もめぐりあうというのは不思議なご縁であります。
今の時代にも自転車で四国遍路をしようという青年がいるのは有り難いことだと思いました。
一遍上人のおこもりになった岩屋寺を訪ね、爽やかな青年にも出逢うことができ、記念館での講演を前に充実した一日でありました。
横田南嶺