そういうもんだ
そのなかのひとつにこんな詩がございます。
念
六十万人決定往生の
発願に燃えながら
名号賦算に
明け暮れた一遍は
二十五万一千七百二十四人で
兵庫の観音堂で倒れた
そのあとを継ごうと
わたしは詩国賦算を始めたが
それは微々たるものでしかない
しかし息の絶えるまで
続けてゆこう
わたしが倒れたら
あとを引き受けてくれる
若い人の出現を念じ
不退の精進をしてゆこう
真民先生は五十歳の年に、道後にある宝厳寺の一遍上人像に出逢いました。
一遍上人というお方は、南無阿弥陀仏という念仏札をみんなに配って日本全国を行脚された方です。
「旅衣 木の根茅の根 いづくにか 身の捨てられぬ 処あるべき」と詠われたように、全てを捨てて念仏札を配る為に行脚しました。
この一遍上人のお姿を写した生けるが如きお像が宝厳寺にございました。
素足のままで質素なお衣を纏った、いかにも素朴なお像なのです。
この一遍上人のお木像のおみ足に触れて真民先生はご自身の道がはっきりしたと言われます。
南無阿弥陀仏の札では受け取ってもらいにくいので、自分は詩を作ってそれを多くの人々に配ろうと決意されました。
一遍上人の志を受け継ぐことを決意されたのです。
そして毎月「詩国」と題して、詩を作って千数百人の方々に配っていらっしゃいました。
私も高校生の頃から大学を卒業するまでの間、その「詩国」を送っていただく一員に加えていただいていました。
こんな詩もございます。
激しい血
一遍の歴史的考証など
どうでもいいのだ
わたしが心ひかれるのは
捨身一途な
遊行賦算の
旅姿である
二本の足で
日本国中を
歩き回った
衆生無辺
誓願度の
激しい血である
真民先生は、その著『一遍上人語録 捨て果てて』の中で、
「思うに上人の偉大さは、一山にこもり堂塔伽藍を建てることもなく、国家安泰を祈願し、自己の栄達を図ることもなく、また悟りの深さを書き残すこともなく、橋をかけ池を作ったりすることもなく、一切を捨てて諸国を遊行し、 無差別平等の真の念仏を伝え、一人でも多くの人に浄土行きの賦算札を配り歩いたことである。こういうことは、そう誰にもできることではない。
一遍上人独自の生き方である。
わたしは宗教というものは、どう生き、どう死ぬかであると思っている。だから上人のこうした生き方に、特に心ひかれるのである。」
と書かれている通りなのであります。
私も二〇一二年三月に坂村真民記念館がオープンしたときに、宝厳寺にお参りしてこの一遍上人像を拝ませていただきました。
その折に宝厳寺にある真民先生のお墓にもお参りさせてもらいました。
お墓はお寺の裏の小高い丘の上にありました。
真民先生は熊本のお生まれでしたから、熊本に向けてお墓が建てられていました。
墓石には坂村家とも何も書いていません。
「念ずれば花ひらく」の字が彫られているのみでした。
そのお墓に参りますと、丁度いいお天気で、四国の明るい日差しが燦々と降り注ぎ、さわやかな風がすーっと吹き渡っていました。
何とも言えない清々しさでした。
真民先生の詩に「風と光」という短い詩があります。
「風も光も
仏のいのち」
という詩です。
そのお墓にお参りしたとき、明るい日の光とさわやかな風とに「風も光も坂村真民先生」だと思ったのでした。
高校生の頃から先生の「詩国」賦算の一員加えていただいて、それでも生前の先生にお目にかかれず、残念な気がしていたのですが、そのお墓に参って光と風とに先生を感じて、「ああ真民先生に会えた」と何とも言えない喜びに満たされたのでした。
ところが明くる年二〇一三年平成二十五年の八月十日に、なんと宝厳寺が全焼してしまいました。
あの一遍上人のお木像も燃えてしまったのです。
燃えたあとにもお参りしました。
本堂も書院も庫裏もすべて燃えて無くなっていました。
あの木像も燃えてなくなりました。
焼け跡に立ったときの茫然たる思いは忘れません。
その後真民先生の三女の西澤真美子さんと
と相田みつをさんのご長男と私とで三人で月刊『致知』の企画で鼎談をいたしました。
その折に、私は西澤さんに、あの一遍上人像が燃えた跡に真民先生が立たれたらなんと仰ったでしょうかと質問しました。
西澤さんはしばらく考えながら、その時には即答されませんでした。
私は、長い間そのことを考えていまして、その鼎談の日には、こんな詩を答えました。
「消えないもの」という詩です。
どんな伽藍でも
いつかは壊れる
それは歴史が示している
だがいつまでも
壊れないものがある
それは愛と慈悲である
この二つはエーテルのように
宇宙からきえることはない
というものです。
お釈迦様はお亡くなりになる時に、全てのものは壊れゆく、汝ら怠らず勤めよと仰せになりましたが、そんな中でも壊れない愛と慈悲があるのではと、そういう話をして鼎談は終わりました。
その後、西澤さんからご丁重な手紙をいただきました。
その手紙には、燃えて全て亡くなった跡に立たれて真民先生は何を言われるかについて綴られていました。
私は、そのお言葉を読んだ時には、涙が流れました。
「宝厳寺の本堂が燃えているときの炎はまるで地獄絵のような恐ろしい勢いでした。
上から見ている父は、自分の身が焼かれるような痛みだったに違いありません。
そして見事としか言いようが無いほど、燃え切って灰になり、翌朝私がまいりました時には、風だけが吹き抜けていました。
風は焦げた竹林を通ってお墓に届いたことでしょう。
その風の中に、父は一遍上人のお姿を見ていたと思います。
立像ではなく、生きたお姿を。
山河草木、吹く風浪の音の中に生きていらっしゃるお姿です。
そして何と言ったでしょう…
ひとつ言葉が浮かびます。
そういうもんだ」
長い言葉ではありません。
そういうもんだ、一言です。
しかし深い深い一言です。そういうものなんです。
この世に生きるとはそういうものなのです。
つらい目にも遭います。
かなしい思いも致します。
なぜこんな目に会わねばならないのか眠れないこともあります。
しかしこの世に生きるとは、そういうものなんだと受け止めて生きていくしかありません。
この世の憂いも悲しみもみんな受け止めて生きる、深い一言がこの「そういうもんだ」にあると思いました。
今もこの言葉を思うと涙がにじむのです。
その後宝厳寺は立派に再建されました。
燃えたお木像も見事に復元されて一遍堂におまつりされています。
横田南嶺