無差別平等
毎号、心のこもった誌面であります。
私も毎回楽しみに拝読しています。
タンポポ便りと共に、坂村真民記念館開館十一周年記念特別展のチラシが入っています。
「一遍さんと真民さん~坂村真民がめざした一遍さんの生き方~」という特別展なのです。
「未来永劫」という題の詩が書かれています。
一遍さんが行く
わたしも行く
二人はいつも
一緒
破れ衣に
跣の旅
花が
散る
散る
賦算の札に
鳥が
鳴く
唱える声に
春夏秋冬
未来永劫
という詩であります。
タンポポ便りの中にある、「真民詩を読み解く」という欄には、この詩が真民先生九十一歳のときに作ったものだと書かれています。
「最晩年を迎えた真民が、自分の生き方の中心に一遍上人を置き、その人と共に歩むことを「心から楽しんでいる」ことが分かります。
「未来永劫」ということは、亡くなった後もずっと貴方と一緒に居させてくださいという真民の願いが込められた言葉ですね」
と解説されています。
タンポポ便りの表紙には、海野阿育(うんのあしょか)先生の絵に
「木が大きくなろうとするのは
少しでも光を浴びたいからだ
草がいつもそよいでいるのは
少しでも風と遊びたいからだ」
という真民先生の詩が掲載されています。
そして巻頭に真民先生の三女である西澤真美子さんの「坂村家のアルバム」という文章があります。
はじめに『詩人の颯声を聴く』という致知出版社の本から次の言葉が引用されています。
「五年生を受け持ち、その子らを卒業させたんですが、体操の時間は子どもたちを川に連れて行った。
(中略)
そこに連れて行くと、子どもたちが夢中になって、魚を捕る。
さよりという、すばしこい海の魚がいましてね。
それを手で捕るんです。
中に、名人級のものがいました。
これは一番できん子でした。
いまでいえば、落ちこぼれの子です。
貧しい家から来ていましたが、字一字知らん。
その子が、さより捕りはもう名人でね。
「お前は偉いね」とほめたら、先生から初めてほめられたと、もう大変喜びました。」
というのであります。
西澤さんは、
「五年の男子組を受け持ちましたが、生徒の中にそれまで何一つ教えられず、ただ教室の片隅に机だけ与えられて、文字一つ書けない子がいました。
あの子は腰掛けさせておくだけでいいですよとの引継ぎ。
父親の急逝によりどん底を体験した真民は、じっとしておられません。
そこで、そろばんを与え、教え始めました。
一たす一、一たす二…………下の珠が五になると、上の珠をおろす、ただそれだけに、どの位の日数と時間とをかけたことか。
そのうちこの子はそろばんをしっかり握って、真民先生を待つようになりました。(当時のそろばんは五つ玉)
一方で、代用教員の真民には、体操をどう教えてよいかわかりません。
そこで、紹介の文章となるわけです。
…一字も書けない子が、あの素早いさよりを一瞬にして手掴みすることが出来る、四年間放っておかれ先生に話しかけたことがない子が、心をひらいて自分から言葉を発するようになる……
五年・六年を受け持ち卒業させるまでの二年間に、新米先生はとても大きなことを学びました」
と書かれています。
真民先生の『愛の道しるべ』には詳しく書かれています。
引用しますと、
「わたしも中学(今の高校) 教員免許状を持って学校を出たが、不景気のどん底時代で職はなく、代用教員として海辺の小学校の教員となった。
五年の男子組を受け持たせられたのであるが、そのクラスに四年間、(一部省略)何一つ教えられず、ただ教室の片隅に机だけ与えられて、文字一つ書けない子がいた。
クラス引き継ぎの時も、あの子はただ腰掛けさせておけばいいですよと言われ、四年間どの教師も、それを何とも思わず受け継いできたと見え、本当に何一つ知らなかった。
わたしは満八歳の時、父が急逝し、一ぺんにどん底へ落ちてしまった生活をしてきたので、こういう子を見るとじっとしておれない性質である。
そこで、そろばんを与え、一たす一から教えていった。」
と書かれています。
そして、更に
「わたしは、その頃ずいぶん遠い処から自転車通勤をしていたが、この子はそろばんをしっかりと握って、わたしがやってくるのを校門の外の道に立って、待つようになった。 代用教員だから体操などはできず、いつも近くの川口に魚取りに連れて行った。」
ということが書かれていますが、今回のタンポポ便りには、その玉名市の地図も掲載されていて、どのような道のりであったかがよく分かるようになっています。
きっと、この玉名の地を毎日自転車で風を切って走りながら、いろんなことを考えられたのだろうと想像することができます。
「ある日、この子が、こんなことを授業後言った。
「先生、けさはめし三杯食ってきたんだ。米のめしでうまかった」と。
貧しい家だったが、きっと何かで米のめしをたいたのであろう。
それでその喜びをわたしに伝えたかったのである。
わたしは職員室に帰り、この話をしたら、皆がびっくりし、あの子が先生に話しかけたのは入学してから初めてだろう、と言うのであった。」
という話であります。
そして、この西澤さんの文章には、このさより捕りの名人は、のちに鳶職になったと書かれていました。
このことは私もはじめて知りました。
タンポポ便りを読むと、真民先生の詩や、随筆集だけではわからないことをいろいろと学ぶことができるのです。
そして、この話から、真民先生の「すべては光る」という詩を思うのであります。
どんな子も光るものをもっていると見つめる、どんな子どもも決して差別しない深い愛の心を感じる話なのであります。
この無差別平等の心は、真民先生が心から敬愛された一遍上人のお心に通じるのであります。
横田南嶺