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臨済宗大本山 円覚寺

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2023.02.27
今日の言葉

『覚悟はよいか』復刊

円覚寺の三代前の管長に、朝比奈宗源老師という方がいらっしゃいました。

師弟の関係で申し上げますと、私の師匠が、前管長の足立大進老師で、その師匠が朝比奈宗源老師であります。

ただ朝比奈老師のあと、松尾太年老師が管長に就任されて、そのあと足立大進老師が管長になられましたので、三代前の管長なのであります。

朝比奈老師は、明治二十四年(1891)に生まれ、昭和五十四年(1979)にお亡くなりになっています。

八十八才の長命でいらっしゃいました。

円覚寺の管長に就任されたのが、昭和十七年五十一才の時でありました。

実に三十七年の長きにわたって円覚寺の管長をお勤めになった老師であります。

ただ厳密に申し上げると、昭和十七年の時には、臨済宗は各派が合同していましたので、円覚寺派管長ではありません。

円覚寺の住職、貫首でありました。

戦後各派が独立しましたので円覚寺派管長となられたのです。

ともあれ、実に長い間管長を務められて、今日の円覚寺の礎を築かれた老師であります。

その朝比奈老師の著書『覚悟はよいか』という本が、このたび復刊されました。

この本は、もともとPHP研究所から昭和五十三年(1978)に発行されたものでした。

最晩年の朝比奈老師に聞き書きした本であります。

当時まだ私はふるさと和歌山県新宮市の中学生でありました。

十四歳の私は、この本にであって感動しました。

そして何度も何度も繰り返し貪り読んだものでした。

私にとっては忘れることのできない本であります。

私は和歌山県新宮市で鉄工業を営む家に生まれました。

今こうして鎌倉に住み円覚寺の管長を務めていますが、もともとは鎌倉にも円覚寺にも全く縁はありませんでした。

ただこの道を求める様になった一番のきっかけは、満二歳の時に祖父の死に遭ったことでした。

死とは何か、死んでどうなるのか、どこに行くのか、この死について大きな疑問を抱くようになりました。

更に小学生の頃に同級生の死にも遭って、更に死は、私にとってもう抜き差しならぬ問題となったのでした。

死とは何か、死んでどうなるか、解決を求めて書物を読み漁り、お寺や教会に通ったりしたのでした。

そんな中で禅寺で坐禅をするご縁に恵まれました。

まだ十才の時でありました。

そこで和歌山県由良町の興国寺目黒絶海老師のお姿に接し、私は子どもながらここに死を解決する道があると直感しました。

それ以来ずっと坐禅を続けているのです。

その十才の時の直感を書物で裏付けしてくれたのが、この『覚悟はよいか』という一書であります。

朝比奈老師は昭和五十四年に八十八歳でお亡くなりになっているので、お亡くなりになる前年に出されたものであります。

朝比奈老師は、四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くされています。

死んだ両親はどこに行ったのかを求めて坐禅の道を志されたと本書に書かれています。

そして朝比奈老師は坐禅をして、この死の問題をはっきりと解決することができたと本書に明言されています。

死についての答えを求めていた私にとっては、まさに解決の道を得た思いだったのでした。

そんな次第で、本書の巻頭に「『覚悟はよいか』復刊にあたって」という一文を書かせていただきました。

その文章のはじめに、
「この一冊が、私の人生を決めた」、そう言っても過言ではない。

と書いたのでした。

この言葉が、本のオビにも使われています。

決して過言ではありません。

実にその通りなのであります。

中学生の頃から、朝比奈老師の本を貪り読んで坐禅してきた私が、なんとその円覚寺の管長に就任したのですから、ご縁の不思議というよりほかありません。

管長に就任して一番はじめの大きな行事が、朝比奈老師の三十三回忌法要でありました。

その時には管長として導師の役を務めたのでした。

この本を読んで三十三年の歳月が経っていたのでしたが、実に感慨無量でありました。

この本には、生前の朝比奈老師の貴重な写真がいくつも掲載されています。

朝比奈老師の御孫である朝比奈恵温浄智寺住職のご好意であります。

その多くが、今私が使わせてもらっている部屋での写真であります。

朝比奈老師に導かれて今の私があるのだとしみじみ思います。

死の問題を解決された時のことを、本書のなかで次のように語っておられます。

「強いて、ひとことでいうならば、祖師がたのおっしゃるとおりだった、というきわめて平凡な結論にしか過ぎない。

つまり儂は、それまで儂にとらわれていた。

儂しか見えなかった。

それが、儂をいやおうなしにとりまいていてくださる仏心というものを見たのだ。

それは、自分を無にして、はじめて見えたのだな。

自分が空しうなったのだな。 真空状態になって、自分を包んでいる「光」がわかったのだ。」

と書かれています。

私も強いてひとことでいうなら、朝比奈老師が仰っていた通りだったということがはっきりしたのでした。

お互い肉体を持った生命は、限りあるものです。

数十年前に生まれ、やがて朽ちてゆきます。

しかし、はじめも終わりもない「いのち」の世界があります。

それを朝比奈老師は、次のように語っておられます。

「無始無終というのは、儂にとらわれていたのでは永久にわかりっこない。

儂には生まれたという始めがあり、死という終りがある。

その儂が死んでも、天地はいきいきと生きているだろう。

山川草木、すべて自然のままに在るだろう。

それが「仏心」なんだなあ。

仏心とは、それらすべてのものを包んだもの、その中に我は生き、我は死ぬが、一体なるがゆえに生をも超え、死をも超えることができる。

儂はその中に生きていたんではなくて、すべての中に儂がいたのだ。

すべてのものが儂であり、そういう儂がすべてのものだった。」という世界なのであります。

この本の復刊についての経緯は、私が昨年出版した『悩みは消える!』という本の中に、『覚悟はよいか』について触れたのがご縁だったようなのです。

『悩みは消える!』のなかで

「「死を解明したい」という私の思いがどのようにしてかなえられたのかといいますと、中学か高校のときに読んだ本にその糸口がありました。

その本は、円覚寺の朝比奈宗源老師が書いた『覚悟はよいか』(PHP研究所、一九七八年)です。これは名著だと思っています。」と書いています。

この本を読まれた「読書のすすめ」の清水克衛さんが、復刊しようと思われて、ゴマ書房新社に掛け合ってくださったというのです。

有り難いことです。

お亡くなりになってもう四十数年経ってなお読み継がれるというのは尊いことであります。

 
横田南嶺

『覚悟はよいか』復刊

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